ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダ・カフェ 第114回 ブライス多佳子さんの気功教室

本日25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第114回

 

せつがとくぶ/こくちゅうにんでん/ぎょうしきふどう/うこうしゅうしゃ/ふしゅしょうがく

設我得仏 国中人天 形色不同 有好醜者 不取正覚


                  「無量寿経 第四願 无有好醜の願」

 

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にして、好醜あらば、正覚を取らじ 

 

みよ みにく 「もし私が仏になる時、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好き者と醜き者とが あるなら、私は仏にはなりませぬ。

                            (柳 宗悦訳)

 

阿弥陀如来が法蔵という名の修行僧であった時、「すべての衆生を仏にしなくて は自分もまた仏にはならない」との誓いを四十八の願い(弥陀の本願)として起こされた。その四番目の願にあたる。この願は、「仏の国に於ては美と醜との二がない」(柳 宗悦「美の法門」)、つまり〈美醜の有無を離れた世界〉が願われている。

  

 本日、10月25日(日)は、ブッダ・カフェの日です。

 いつもの客殿の座敷を開けていますので、どうぞくつろぎにおいでください。

 


10月25日(日)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。

 

 

ブライス 多佳子
気 功 教 室
気が流れて、自然に動き出すまで。
 

日時:10月25日(日)  14:50 〜 16:20
場所:徳正寺 
参加費:1,000円
ブッダ・カフェの参加費も含まれます。なお気功教室に初めての方は無料ですが、
 ブッダ・カフェの参加費300円はかかります。

 

 以前、ブッダ・カフェから発行していた会報「ホオクス・ポオクス」(2012年 12月25 日 発行)からブライスさんにご寄稿いただいた「がんばらないで」を再掲させていただきます。
 ここに、気功体(気功を体験するときの意識状態)というものをいくつか書きだしておられます。
 それが、つねひごろ出来そうで、なかなか出来ないこと。

 

○ 余分な力を、手放す。99%のリラックスと、1%の緊張。
○ からだの中心線は、いつもまっすぐ垂直に立っている。天からぶら下げられているように。
○ 動くときは、行きたい方向へ向かってゆるむ。
○ その状態を、じっくり味わう。
○ がまんして待つ。気が流れて、自然に動き出すまで。

 

 ここに共感を覚える方があれば、ブライスさんの導きで気功を体験してください。




 


ブライス多佳子 プロフィール

同志社大学文学部 卒業。
大学医学部、薬科大学等の研究室
秘書を18年勤める。
1994年より八卦循導功を学び、
2013年講師資格を受ける。 
外国人の夫と二男一女あり。
京都市在住。

 


参加費:

300円


 

ブッダ・カフェ 第113回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第113回

 

がんにしくどく/びょうどうせいっさい/どうほつぼだいしん/おうじょうあんらくこく

願以此功徳/平等施一切/同発菩提心/往生安楽国

 

善導「『観経疏』玄義分」

 

願わくばこの功徳を以て/平等に一切に施し/同じく菩提心を発して/安楽国に往生せん 

 

「願以此功徳」と「往生安楽国」の間に、「平等施一切/同発菩提心」という二行が入ります。すべての人に、念仏という功徳をさし向け、その功徳をさし向けられたわれわれ一切衆生が、安楽国、浄土へ往生できるよう「私」は菩提心を起こした。即ち仏となる道を求めて「私」は願いを立てたのです。この願いを立てた「私」とは、実は私たち人間ではなく、「私」とは阿弥陀佛の一人称です。この「仏=私」の願いこそ、「弥陀の本願」と呼ばれ、私たちに回向される(差し向けられる)お念仏そのものなのです。

 

 明日、9月25日(金)は、ブッダ・カフェの日です。

 いつもの客殿の座敷を開けていますので、どうぞくつろぎにおいでください。

 


9月25日(金)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


 

ブッダ・カフェ 第112回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第112回

 

設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚

 

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

 

無量寿経 第十七願 諸仏称名の願」

 

「咨嗟」とは、「ほめたたえる」と意訳されますが、「嘆き」「悲しみ」という意が含まれています。世界の数限りのない諸仏が嘆き、悲しみに暮れていらっしゃる。私たちは世に満ちた咨嗟に耳を塞いではいないでしょうか。悲嘆の中にこそ念仏がある。念仏、それは我々を見まもる諸仏と出遇う契機なのです。

 

 本日、8月25日(土)は、ブッダ・カフェの日です。

 いつもの客殿の座敷を開けていますので、どうぞくつろぎにおいでください。

 


8月25日(火)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


 

ブッダ・カフェ 第111回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第111回

 

 

解脱(ケダチ/げだつ)ノ光輪(クワウリン/こうりん) キハモナシ

光触(クワウソク/こうそく)カフ(む)ル モノハ ミナ

有無(ウム)ヲハナルト ノへ(べ)タマフ

平等覚(ヒヤウトウカク/びょうどうかく)ニ 帰命(クヰミヤウ/きみょう)セヨ

浄土和讃 讃南無阿弥陀偈和讃 五」

 

 われわれ生死の懊悩は、無辺の光にひとたび触れれば、たちまちに氷解する。分別をつけて有無を測ろうなどとする心根からは、いっさい離れてしまおうと仰ってるのだ。平等の慈悲ですべてを救う阿弥陀仏をひとえに頼りなさい。(拙訳) 

 

 明日、7月25日(土)は、ブッダ・カフェの日です。

 いつもの客殿の座敷を開けていますので、どうぞくつろぎにおいでください。

 


7月25日(土)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


 

ブッダ・カフェ 第110回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第110回

 

 

解脱(ケダチ/げだつ)ノ光輪(クワウリン/こうりん) キハモナシ

光触(クワウソク/こうそく)カフ(む)ル モノハ ミナ

有無(ウム)ヲハナルト ノへ(べ)タマフ

平等覚(ヒヤウトウカク/びょうどうかく)ニ 帰命(クヰミヤウ/きみょう)セヨ

浄土和讃 讃南無阿弥陀偈和讃 五」

 

 われわれ生死の懊悩は、無辺の光にひとたび触れれば、たちまちに氷解する。分別をつけて有無を測ろうなどとする心根からは、いっさい離れてしまおうと仰ってるのだ。平等の慈悲ですべてを救う阿弥陀仏をひとえに頼りなさい。(拙訳) 

 

 明日、6月25日(木)は、ブッダ・カフェの日です。

 2ヶ月ぶりに徳正寺での開催となるのですが、扉野は法務のため不在となります。

 13時にいつもの客殿の座敷を開けていますので、どうぞくつろぎにおいでください。

 


6月25日(木)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円


 

ブッダ・カフェ 第109回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第109回


5月25日(月)
13:00〜16:30
場所:めいめいのいる場所で

 Zoomによるオンライン開催予定

 

 

解脱(ケダチ/げだつ)ノ光輪(クワウリン/こうりん) キハモナシ

光触(クワウソク/こうそく)カフ(む)ル モノハ ミナ

有無(ウム)ヲハナルト ノへ(べ)タマフ

平等覚(ヒヤウトウカク/びょうどうかく)ニ 帰命(クヰミヤウ/きみょう)セヨ

浄土和讃 讃南無阿弥陀偈和讃 五」

 

 われわれ生死の懊悩は、無辺の光にひとたび触れれば、たちまちに氷解する。分別をつけて有無を測ろうなどとする心根からは、いっさい離れてしまおうと仰ってるのだ。平等の慈悲ですべてを救う阿弥陀仏をひとえに頼りなさい。(拙訳)

 

 
 明日5月25日(月)のブッダ・カフェも、先月と同じく、いまここにいるめいめいの場所での開催とします。Zoomを用いてオンライン開催を予定していますが、うまくアプリを操作してできるか確信が持てずにいます。

 

 参加ご希望の方は、わたし、扉野のフェイスブックから、メッセンジャーを通じてお申し込みください。
 
 
 定員10名で開催をしたいと思います。申し込みをしていただいた上で、参加者にはオンライン・ブッダカフェのURLアドレスをお送りします。参加受付完了のお返事は明朝のお知らせとなります。またURLアドレスは明日正午に送信します。
 
 主催者の不手際で、うまく開催できない可能性もありますので、その点ご了承ください。
 
 参加費はとりません。

 

十二歳のスペイン風邪 大伯母の百年前日記

 PCで編集仕事をしながら、眠気に襲われてツイッターを開くと「#国民投票法改正案に抗議します」というトレンドがあがっていて、見送られた「#検察庁法改正に抗議します」がまだ続いているのだろうとぼんやりTLを追っていたら、どうもそうではないと目が覚めてしまった。

 誰の意志でこういう動きが生じているのだろう。なにか目に見えない怖い病気に感染した人たちが政権を動かしているのではないだろうか。

 

「今晩から少しこわくなる」

 

 と、これはわたしの大伯母が100年前(正確には102年前)日記に記した言葉だ。

 

 三年前に寺の境内にある六角堂(納骨堂)の片づけをしていたら、須弥壇の下の収納奥深くから埃をかぶった六冊の日記帳が出てきた。薄暗い堂内でそれを開けると、まだ女学校に通っていたころの大伯母の日記だった。

 いまその一部を翻刻して、多くの人に読んでもらいたいと、印刷所から刷り上がってくるのを、まだかと待っているところである(今月末刊行される季村敏夫さんの個人誌、『河口から 6』に掲載)。

 

 大伯母の日記は、当時インフルエンザとは知られていなかったスペイン風邪の流行を生々しく記録していた。

 

大正7年/1918年)十一月十二日火曜日 天気晴 温度五十五度[一二・七℃] 起床六時 就眠九時
此頃新聞を見ると黒枠の広告が沢山ついてゐる。
お友達の重田さんのお母さんも八日になくなられたさうで今日山嵜先生と世良さんと私とで生徒総代になつておくやみに行った。
ほんと重田さんはお気の毒である。

 

 大伯母は京都府立高等女学校(現・京都市堀川高校)へ入学したばかりの少女だった。曇りのない目とはこういうことなのだと納得される、見たまま、感じたままを筆に乗せた12歳の記録である。日記は期せずして、世の中の動きをとらえて、スペイン風邪の流行を身近に迫る不安として記し留めている。

 

 「今晩から少しこはくなる」とは、スペイン風邪が世の中に蔓延するなか、父が所用で不在となった夜につぶやかれるのだが、この目に見えない恐怖は、いまわれわれが経験している漠然とした不安と直結している。

 

 ツイッターでは安倍内閣への抗議の声が無数にあがっている。

 いまの政権は、われわれに底知れない恐怖を与える。

 「今晩から少しこわくなる」

  

 

「十二歳のスペイン風邪 大伯母の百年前日記 野田正子日記抄」の編者後記を、国民投票法改正案に抗議して、一足先にここにあげる。  

 

〈編者後記〉

 大伯母の日記には、興味の尽きない事がまだまだ記されている。紙数を大幅に過ぎて、というよりも、わたしが熱狂するあまり無制限にこの日記掲載を許していただいたことで、常軌を逸した分量になってしまった。

 二月一九日の夜、「少しのどと頭が痛かつたから早く寝た」と記して、その翌日から十六日間も寝込んでしまうのは、大伯母はおそらくスペイン風邪にかかったのだと思われる。病気中も一行足らずでも日記がつけられたのは、軽症で済んだためだろうか。しかし、二週間余りも病床にあったのだから、ただの風邪でなかった。「熱の高さは朝六度八分 昼は七度二三分 夜は七度五分」(二月二六日)、「熱は毎日同じ高さで上り下りもしない」(二月二七日)と、律儀に体調を書き記していて、SNSなどなかった時代、病状がタイムラインのように読めることには驚く。

 日をさかのぼって読みこめば、大伯母の感染経路も推測できる。発症の五日前、二月一四日に「母は渋谷の姉さんが流感で寝てゐられるのでお手伝に行かれた。女中もかぜで郷里へ帰つたので兄さんが困つてゐらしやつたさうだ。」と記す。大伯母の母が流感の感染者と濃厚接触をしていたのである。

 確かに、この日記をスパニッシュ・インフルエンザに関わる史料として疫学的に見るのなら、病床の十六日間とその前後、風邪の流行に関わる記述だけを追えば良かった。

 ただそれでは、大伯母の筆が書き遺したことの本質が半減する。

 スペイン風邪の患者数、死亡者数とも最大に達するのは大正七年(一九一八)一一月のことだが、大伯母のまわりにも病気になる人や、「此頃新聞を見ると黒枠の広告が沢山ついてゐる」(一一月一二日)と、明らかに感染症の拡大が日記には記し留められていた。社会全体が目に見えない不安に包まれているなか、「夜父は広島へおこしになつた。/今晩から少しこはくなる」とたった二行で記された日がある(一一月一一日)。これは単に父の不在が不安というより、十二歳の少女が漠然とした死に直面して畏れを抱いている。

 このたった二行が、長命だった大伯母の一生と吊り合っていると感じるのは、編者の深読みに過ぎるだろうか。

 

季村敏夫個人誌『河口から 6』掲載