ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダカフェとは

ブッダカフェの呼びかけのため、知人たちに送ったメール文を転載します。

Buddha Cafe
ブッダ・カフェ
@京都・徳正寺


ブッダカフェとは──────扉野良人


 ブッダカフェという、人と人と会える場と時間を作れないものか、寺でテーブルを囲んでのひとときを過ごす、小さくて淡いコミュニティーを、カフェというスタイルにもとめての試みです。
 耳を澄ませてブッダ智慧にあずかるほどの茶話ができればと願っています。

 5月1日にその始まりの会を開いて、13名ほどの方が集いました。「東日本震災と関西交流会」のメーリングリストにより告知したので、それに応じて参加してくださった方々が中心となりました。福島県から西日本に避難してきた人たちに呼びかけたこともあって、大阪高槻に住まいを定めた母と子が来てくださいました。

 会の報告はのちほど記します。

 まずブッダ・カフェを開くにいたるまでのいきさつを言えば、去る3月28日に催された旧グッゲンハイム邸(塩屋)での「また会えたね〜震災、原発、仙台からここへ〜」という集りに、私たち家族で参加したことがありました。
 仕事を終えて京都から駆けつけたので、会の後半のみの参加でしたが、そこで罹災と放射能への恐れをいだいて西日本へ逃れてきた方たちの切実な声を聞き、それまで自分の思考や発想の拠りどころとしてきたものがぐらぐらとゆらいでしまった。
 これまでわたしがなにを拠りどころとしてきたか、わたしの思いつく持ち札は「文学」「芸術」「仏教」とやけに大きなテーマなのですが、あくまで自己中心的なものとしてわたし自身を跡づけてきた「理想」が試されるているような心地がしたのです。
 このままでいいとも思い、また一方でこのままではいけないとも感じました。


 3.11以来、わたしは直接的になんら行動も起こさず(僅かばかりの募金をしただけで)、いま目の前の日常を大事に送ろうと思っていました。この惨禍の波が形を変えて自分にも寄せてくれば、そのときの身の動き、判断にまかせればよいというくらいの暢気なものでした。とはいえ気持ちはささくれ、マスメディアの報じる原発事故の消息に戦き、そして深い嘆息をつくばかりの日々。嘆息をつけば、そのことで自分が何かを憂えていると安心ができました。

 もどかしい気持ちのつのるいっぽう、わたしはなるべく早い時点で仙台を訪ね、さらに気仙沼を訪ねようと企ててもいました。それも、そこに会うべき友人、知人がいるという一方的な理由からに過ぎなくて、どういうわけか行った先できっと喜んで迎えてもらえるような仄かな期待もしていたのです。
 じつは会うべき仙台の友人、気仙沼の知人というのはいまだ会ったことがない間接的な友人、知人だったと言えば呆れられましょう。何をしにきたと追い返されたかもしれません。


 そのような能天気さのなかに、わたしは震災後しばらくいました。
 もしかするとつとめて能天気でいようとしていたのかもしれません。地震のあった夜は、東京から来た友だちと酒場で飲んでいました。

 会場となった古い西洋館の広間でも、木の階段の踊り場でも、子どもたちが駈け巡って、
声があちこちで聞こえてきました。テーブルを囲んでの張りつめた集会の空気をよそに、わたしは子どもたちの声に耳を澄ませていた。
 「子ども」から考えること。それが、どれほど私たちの拠りどころとなり得るかを、「また会えたね〜震災、原発、仙台からここへ〜」がよこしてくれたメッセージとして今も受けとめています。

 もうひとつ 、わたしたちが旧グッゲンハイム邸に足を運んだのには、その5日前の23日(震災から12日目)に仙台のブックカフェ火星の庭店主、前野久美子さんと娘のめぐたんが、ひょっこり私たち家族の前に現れたことでした。先に書いた、いまだ会ったことのなかった仙台の友人とは前野さんのことです(いずれ近い日に前野健一さんとも会いたいです)。これには驚きました。わたしにはまれびと(賓客/客人─海の彼方の異境から来訪して、人々に祝福を与えて去る神)の来訪を受けたような嬉しさがありました。
 それからの3日間、久美子さんめぐたん母子と私たち家族は京都の自宅や三重県の妻の実家で寝食をともにし、震災のはなしはもちろん他愛のないはなしで笑ったり、互いに子どもをもつ身として子育ての話などしながら(妻が久美子さんと意気投合していましたが)、家族同士で過ごす時間を持ったことが、こんかいの震災と原発事故の現実にどう向き合うかの足場を私たちに与えてくれたように思います。
 人と人とが出会う大事さを教えられた3日間でした。

 人と出会うことが行動を生むものなのか、4月10日に北白川ガケ書房山下賢二店長との共同企画で「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」を店の前のフリースペースで開催し、「また会えたね〜震災、原発、仙台からここへ〜」に集った方たちに呼びかけてガケ書房の近くの児童館で集会を開きました。
 そのときの告知文を再録しておきます。

「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」

 地震の発生から時間は刻々と過ぎ、事態は移ろい、新たな緊張が満ちては引く毎日です。
 わたしたち西日本にいるものは、どうしてもテレビやラジオ、PCの電源を消せばなにかわらぬ日常が目の前にあって、そのことにこれでいいものかと、目を瞑って平静をたもてずそわそわ、ざわざわとすることで、奇妙な平静を保とうとしているのかもしれません。
 この非日常において、各人が身の回りに持っているもの(モノ、唄、作品、ことばetc・・・)を投げ銭という形で手放す(リリース)ことで、「想像力を善きことに使う」(古川日出男)試み。

4月10日(日)12:00〜日没まで
「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」 ガケ書房 正面
(15:00から震災避難されている方達の集会あり)

古本、作品、歌声やお経や演奏、パフォーマンス、身の回りのものなんでもをすべて投げ銭で交換する。ライブステージが無い時間は、自由参加枠として、飛び込みで自由に個人の所有物を販売したりも可能。


 そのころ各処で集会やデモ、チャリティ・ライブなどが催されていましたが、「ガラクタを想像力に変える投げ銭市」では来客に被災地への支援を募るような直接的な目的は設定しないで開催しようという主催者の了解がありました。

 その趣意をくみとってブログに紹介してくださった方があったのがありがたかったです。



「為才の日記」
前回、鶴見俊輔先生が、3月31日夕に朝日新聞で発表された「身ぶり手ぶりから始めよう」と題された文章を紹介した。それは、はるか古代日本で、文字文明技術文明より前に、物々交換的交易でも使われたであろう動きを、被災地に発見するという内容だったが、なんと、呼応する(んではないかと勝手に思っています)イベントが「ガケ書房」で行われる。

http://d.hatena.ne.jp/izai/?of=5


 という書き出しで、以下長いですが為才さんの記してくださったものを引かせていただきます。

いちばん手元におきたいものを、率先して、他者に売り、新しいほしいものを買う行為の持続が、一番ほしいものを手に入れるもとになっている気がするからだ。これは一種宗教的でもある作法で、なまなかにはその境地には立てまい。
 「投げ銭市」も、個人的には、そういう作法での誘いで、鶴見先生の文章となんとなく通い合う。
 モノを経済的マーケットでの価値のみで計ると、究極には株価のようにゼロか無限かにならざるをえないだろう。そんなジェットコースターのような危うい市場でかろうじて均衡が取れている時間は、今回の原発事故を含む大きな危機に遭遇すれば、そうそう長くはないと思わざるを得ない。
 今までの日本の社会(つまりアメリカ文明)のスタンダード(基準)、法規的な正義(株主重視経営とコンプライアンス)、経済的効率的な功利(マーケットという神)を、たとえば地震対策に厳格にあてはめるほど、復興には長大な時間がかかる。
 現在、夏の計画停電の必須事態を政府は告知している。その前で、刻々と見直しすべき事態が迫っている。長期的に有効な、安全な社会のためのプランをみんなで考えないと、これより先は進めないのではないだろうか。
 東電は、原発事故の安全管理に、もちろん新しい原発はそうじゃないと言うだろうが、経済的効率的な基準を適用したから、結果として危険な施設を稼動させていた。
 鶴見先生によれば、近くは明治の開化、古くは文字(言語コミュニケーション)の発明以来、人類はこれを目指し、進んできたとすれば、簡単にそれはやめれるものではない。もちろん、復旧は至上の命題である。
 しかし、何が本当に効率的かを考えるために、いままで効率的と当然考えたことを疑い、他のエネルギー利用を含めて、考え直す必要はあるだろう。人間が金銭から価値評価の基準を奪い返すには、個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねるほかないのではないか。
 そのためには、今まで身の回りにあった、文明生活の棚卸しを実行し、もっとも貴重であった親しんだ生活そのものの一部を、「投げ銭」に変えることも考えなければならないのではないだろうか。
 上記「ガケ書房」のイベントは、その鍵は「想像力」だと提案しているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/izai/?of=5

 私たちが考えた以上に為才さんが「個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる」ことの大切さを伝えてくださいました。

 10日の児童館での集会では仙台から避難してきたひとりの高校生の声が印象的でした。彼女ひとり郷里にのこしてきた友人を気づかい、放射能の危険性を説いてまわり「個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ね」たにもかかわらず、周囲の事情がゆるさず、結局彼女が向き合わなければならなかったのは「自分は子どもの立場で、大人の言うことには従わなければならない」という無力感であり、「大人の言うこと」とは「世間一般の常識」と対をなしていることでした。
 わたしたちは気がつかず「大人の言葉」を口にしているものです。「情報」というものが、まずそうなのでしょう。「情報」だけでは、ほんとうのところ人は動かせない。しかし、その「情報」を「ガラクタ」と見て、それを「ガラクタを想像力に変える」変換式に
かけると、ポンと目の前にボールが転がりだすような気がします。そのボールを使ってのキャッチボールが「個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる」ことの始まりです。人数が集まればチームをつくってベースボールだってできます。

 ブッダカフェは「ガラクタを想像力に変える」試みの延長に生まれました。
 「個人的な顔の見える」ところで、自分にとっても相手にとっても必要十分な言葉だけが交わされる、鶴見俊輔さんの言う「身ぶり手ぶり」から始めることに重きを置きたいと願っています。


 5月1日の始まりの会は、福島県から放射能を逃れて西日本に定住することをすでに決めたお母さんと娘さんが来てくださいました。初めての土地に住むことの困難は計り知れず、娘さんの転入先の小学校や、住むためのさまざまな手続きのため苦労した話を聞きました。
 この社会は個人がなにかをしようとすると不備だらけのようです。彼女たちは、それを乗り越えて、まるで地縁もないにもかかわらず、土に根をはろうとする雑草の力強さを感じました(喩えが悪くてごめんなさい)。

 宮城県から来られたデザイナーの女性と、看護師をされる女性の方もいままで住んできた土地で築いてきたものをいちど捨ててまで、京都にやってこられて自分のスキルを生かせるような働き口を探しておられました。

 京都で美術作家をするKさんは、これまでいくつもコミュニティー・カフェをつくり、どのように自主運営で、それを長く続けていくかについて模索してきたことを話してくださいました。
 ブッダカフェはまだ経験が浅いので、こんごどのように進路を取るかKさんに相談をしたいと思います。
 Kさんもそうですが、この日も同席してくれた前野久美子さんの営むブック・カフェも「カフェ」とつくところで共通しているのがおもしろい。「カフェ」というものが、さまざまなスタイルで作られると、ちょっとしたムーブメントになるのではないかと想像してしまいました。


 1日の模様をもうすこし綴りたかったのですが、かなり長文のメールになってしまったので、このへんで筆を擱きます。

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 以上のようなメールをBCCで送ったのは5/8のことでした。さいご力尽きて最初の集まりの報告が箇条書きになってしまいましたが、メールではこうした経緯や報告、個人的な思いを伝えるのに限界を感じて、ブログ開設を思い立った次第です。
 
 こんごブッダカフェを毎月一回、わたしの生家の徳正寺(京都市下京区)で開いていこうと思います。最初の集まりの13名ほどが、おそらくちょうどよい人数でしたので、多くて25名ほどで満席としたいです。
ブログを通じての連絡手段を考えていきたいです。

次回の日取りは


6月19日(日)
13:00〜17:00

となっています。

場所:
〒600-8051
京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39
徳正寺


 このブログを読んで、ブッダカフェに参加をご希望される方は
 住所/氏名/メール・アドレス/参加をご希望される理由
を記し、上記住所、扉野良人宛に往復葉書でお送りください。

 ブッダカフェが東日本震災をきっかけに生まれたものなので、はじめのうちは被災して西日本に避難されてる方たちが集まって、話ができるような場所としたいです。

 親子連れで来ていただいて、子どもたちが遊べるような企画も考えています。

 まだ試行錯誤の段階なので、このブログを通してブッダカフェの在り方を考えていこうと思います。