ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

浮田要三の仕事

 日曜日(19日)、印刷所から製本された『浮田要三の仕事』が届いた。
 一昨年末から企画、作品撮影、資料整理、編集、DTP作業と制作工程を進めてきた浮田さんの作品集が、やっと形となった。 
 その工程も最終コーナーを回って、作品集のイメージもおぼろげに掴めるようになっていたとはいえ、まだ掴みきれないものが残った。仕上がりを束見本や刷抜きの未製本の束でその都度確認し、さらにまた束見本に試し刷りの表紙図版を貼って工作をしながらイメージを形にしても、「本当にこれで良いのだろうか」という一抹の不安が最後までつきまとっていた。それが、製本された一冊として手に取った瞬間、本そのものの重さとして、これまでの紆余曲折は腑の中にストンと消えていくように感じられた。
 「これで良し」とする素直な納得を得ることができた。



 さて『浮田要三の仕事』とはどのような仕事か。先月、版下を印刷所に入稿したころ、何を書いても良いという一千字のエッセイを頼まれ、この一年半を文字通り制作に明けて暮らした『浮田要三の仕事』について書くことにした。
 「一夜千字」と題されたエッセイは、生駒にある古本屋さん、キトラ文庫の『莢(さや)』(9号/2015. July)という古書目録に掲載された。


浮田要三の仕事


 去年、いや一昨年の暮れから始まった作品集の制作が、ようやく手を離れようとしている。2013年7月、88歳で他界した浮田要三さんの半世紀以上にわたる作品をまとめた『浮田要三の仕事』(りいぶる・とふん刊)である。





 浮田さんの創作は1955年、吉原治良率いる具体美術協会への参加に始まる。それまで浮田さんは絵筆など持ったことはなかった(具体の作品には絵筆を使わないで描かれたものも多いが)。浮田さんは、1948年創刊の子どもの詩と絵と綴り方の投稿雑誌『きりん』の編集者だった。表紙絵の画稿を吉原の家へ取りに行ったのが出会いで、吉原の許に集まる同世代の若い作家と交わるようになる。吉原はじめ具体メンバー(嶋本昭三、白髪一雄、田中敦子村上三郎元永定正、山崎つる子たち)は、『きりん』誌面に踊る子どもの自由奔放な表現に驚き、なおかつ自分たちの創作にインスピレーションを得た。子どもの絵とほとんど変わらない具体メンバーの作品が表紙を飾った。
 浮田さんは編集者から作家になったのだが、それは経歴上のことで、浮田さんが終生大事にしたのは「人間の値打ち」がどこにあるかだった。その上で「芸術が本来の人間の仕事」だと考えてきた作家である。
 しかし、浮田さんの来歴はおもしろい。『きりん』が経営上立ち行かなくなり版権を東京の出版社に委譲すると(浮田さんは『きりん』を編集だけでなく運営もしていた)、具体もやめてしまって、小さな袋工場を営んだ。1960年代、日本が高度経済成長の真っ只中にあるときだ。この時期、浮田さんはいっさい創作から離れた
 浮田さんが本格的に創作活動を再開するのは七十歳を超えてからだった。
 しかし、その十年くらい前から、細々とではあるが作品制作は再開していた。1983年に元具体メンバーの嶋本昭三に誘われてドイツ、デュッセルドルフに現地で制作、発表するグループ展へ参加したのが、浮田さんを駆りたてたのだ。「作品をつくるために、それ以外の実生活をどう考えて行為するかということの大切さを60歳間近になってはじめて学んだ」という。
 その頃の作品に「帽子(ハット)」の連作がある。白の絵の具で固められた帽子が、それも一面を白く塗ったキャンバスに引っかけるように置かれた、とても静謐な作品である。僕は浮田さんと約9年のおつきあいだったが、浮田さんはいつも帽子をかぶっていた。浮田さんを思い浮かべるとき、頭にはいつも帽子がある。だから、白い「帽子」は浮田さんの自画像なのだろう。
人が人として、自分が自分から隔てられているという壁に突きあたり、その壁(キャンバス)へ、かぶっていた帽子をそっと置いたところに、浮田さんの「真に在りたい深いねがい」が籠められている。
 『浮田要三の仕事』は人間の値打ちの籠った作品集である。





「一夜千字」『莢(さや)』(9号/2015. July)

浮田要三の仕事』


編集人:浮田要三作品集編集委員会(小粼 唯 - 小橋慶三 - 猿澤恵子 - 扉野良人
テキスト(全テキスト英訳):井上明彦、おーなり由子、加藤瑞穂、貞久秀紀、平井章一
エディトリアル・デザイン:扉野良人
制作人:小崎唯
発行所:りいぶる・とふん
発行人:井上 迅
発行日:2015年7月21日
書籍体裁:254×269mm(B4変形版)/316ページ/角背背継上製本/PET材透明カヴァー
定価:10,000円(税抜)