ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

鎖の両端

 加藤典洋さんがいなくなってしまった。加藤さんがいないということが不思議でならない。そして悲しい。

 加藤さんが入院されてまだ間もない去年の12月5日、わたしは加藤さんの息子 良くんの墓を訪ねた。房総半島の内陸、小湊鉄道というローカル線の上総牛久という小さな駅で降り、車で20分、木々に囲まれた丘陵地に良くんは眠る。

 

 良くんとわたしが会って言葉を交わしたのは一度きりだったが、印象に残るものだった(それは、良くんが亡くなったことで余計に印象づけられたのだろう)。

 2004年、加藤さんが『テクストから遠く離れて』『小説の未来』(共に講談社)二冊の本により、桑原武夫学芸賞を受賞された。7月、京都ホテルで受賞のパーティーがあった。さて、そのパーティーが終わって三三五五と散会しかかったとき、「次はどこ行くんだ?」と、酒飲みの参加者から声があがった。その声に耳を傾けた多くは、とうぜんどこか近くに二次会の席が用意されているのだろうという頭があった。ところが、どこにも二次会の場所は決まっていないことが判ってきた。加藤さんは、ここへ家族はじめ、山形からお父さんも呼んで来られていたのだ。賞の選考委員を、鶴見俊輔さん、多田道太郎さんらがつとめられて、加藤さんには特別な思いのする賞だっただろう。

 華やいだ一群がにわかに路頭に迷いでたような塩梅となった。

 京の町は、祇園祭をひかえて人があふれかえっていた。いきなり20人くらいの人数を収容できる店など見つかりようもない。さっきの「次はどこ行くんだ?」と声をあげた男、それは晶文社の編集者 中川六平さんだったのだが、六平さんがわたしに近づいて、「おいジン、お前のママの寺はどうなんだ。20人くらい入れんだろう」と耳うちする。わたしは仕方がなく、六平さんが「ママ」と呼ぶ母に、わたしの生家である寺(徳正寺)へ、これから20人ばかりで行くけれど大丈夫? と電話した。そうやって、加藤さんの一家をはじめ、友人たちが、途中コンビニで酒とつまみを調達したりして、徳正寺へなだれ込んだ。

 みんな楽しそうに話をしている光景が今も目に浮かぶ。加藤さんのお父さん(背筋ののびたおじいさんだった)もニコニコされていた。六平さんの「ばーろーおめえ」とさけぶ声が響く。そうした幸せな時間をぼんやり眺めていたら、となりに座った青年がいた。彼は、ほほえみながら話しかけてきた。それが良くんだった。なにを話したのかもう覚えていないが、たぶん猫を飼ってるという話をしたように思う。その前年夏から、三匹の捨て猫がわが家の住人となっていたので、良くんと猫のことでひとしきり話したのではないか。そんな気がする。すると、良くんが「笑った顔の猫って見たことありますか?」と問う。馬が笑い顔をすると聞いたことはあったが、猫の笑い顔はマンガならともかく、想像がつかない。「ないなぁ」と答えると、良くんがポケットから携帯を取りだして、ほらと画面を見せてくれた。そこには、目を三日月みたいに細めて笑う猫の顔が写っていた。思わず顔をあわせて大笑いした。

 

 良くんが事故で亡くなったのは2013年1月14日。その翌日の夜だっただろうか、加藤さんから遅く(といっても22時くらいだった)、電話があった。黒川創さんを通じての電話だった。黒川さんから、良くんが事故死したと聞かされて衝撃を受けた。そうして、わたしに読経を頼みたいという用件だった。当初、加藤さんは、身内だけの儀式めいたことは一切ない告別式を思われたらしいが、黒川さんが徳正寺のことを思いだして、寺へ電話をしたようだった。そのころ、わたしたち一家は、寺の両親とまだいっしょに暮らしてなかったので、母からこちらの電話番号を聞いてかけ直してこられた。

 受話器越しに見えた景色がある。黒川さんから、加藤さんへ受話器が渡され、言葉少なく、そういうことだからお願いします、とかぼそくおっしゃった。わたしは、神妙に「はい」とだけ返事し、言葉が続かないので、良くんと、あのとき話しあったことがありますと伝えた。笑い猫を見せてもらったのだと。すると、加藤さんは涙声で、そうか、ジン君は良と会ったことがあるんだね、とほんの少しだけ明るい表情をされたように思えた。加藤さんは、受話器をおいて、後ろにいるのこされた家族に向かって、わたしが良くんと会った話をされているのが受話器越しに聞こえてきた。くらいくらい、あかりの灯った部屋が受話器の小さな穴の向こうにうかがえた。加藤さんが電話にもどる様子がなく、話し声が続いていた。聞き耳を立てるのが申し訳なくなり、受話器をもどして電話をきった。その夜は夢ばかり見て眠れなかった。

 

 良くんの四十九日が済んだころ、加藤さんから、月に2回ほど発刊する『加藤ゼミノート』がメールに添付して送られてくるようになった。加藤さん自身が編集をつとめ、加藤さんの教える早稲田大学の加藤ゼミの学生の発表の場であり、加藤さんが雑誌などに発表する文章や講演録などを再録、いやメディア掲載の前にここへ載せられることもあり、届くのが楽しみだった。そのとき『新潮』で連載中の、のち『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)としてまとめられる文章も、草稿の段階で読むことができた。

 加藤さんが、良くんの死を受けて、早稲田大学を早期に退官することを決め、『加藤ゼミノート』が終刊することになった(『加藤ゼミノート』は、加藤さんの個人誌『ハシからハシへ』に受け継がれた)。その終刊号にわたしは原稿を頼まれた。〆切を過ぎてもなかなか書きだせず、いま加藤さんに原稿を送ったメールを調べると、2014年の4月4日の明け方に書き終えたことがわかる。

 その加藤さんの返事をここに引いて、『加藤ゼミノート』終刊号に寄せた「鎖の両端」を再録する。

 

迅君へ

 鶏が三度鳴くまで待っていたが、三度鳴いた後に、届きました。
 
 掉尾を飾る、よい文章をありがとう。
 未明の……、読んでみます。
 僕もチェーホフ、読みたくなった。
 では。

加藤

(2014年4月4日 9:16)

 

 

 加藤さん、無断で再録となりますが、お許しください。

 (良くんの墓を訪ねたことから書きだしたのだが、房総半島横断の旅についてはいずれまた記すことにする。)

 

加藤ゼミノート第15 巻第15 号(通号209号)2014年4月15日刊

 
鎖の両端
 
 山田稔さんの訳したロジェ・グルニエの『チェーホフの感じ』(みすず書房、1993年)を読了。チェーホフが読みたくなり、チェーホフを買いに町へ出た。ちょうど手ごろな価格の『チェーホフ全集』(中央公論社、1960年)河原町の古本屋で埃かぶっているのを数日前に見つけていた。函入りで十六巻もあるが、黒と赤を基調にした四六判の装幀はシックで、部屋に置いても邪魔になるまいと言いきかせて持ち帰った。先日もKさんから大部の百科事典を譲り受けたから、しばらく本を増やさないよう自重していた。
 『チェーホフの感じ』で知ったのは、デビュー時のチェーホフが‘アントーシャ・チェーホンテ’という名でユーモア・コントを夥しく書いていたことで、『チェーホフ全集』の若い巻にはチェーホンテ名の掌編がぎっしりと詰まっていた。ロシア洋菓子店の箱入りのクッキーを前にしたようで、「滑稽にして胸が痛む」とほめられたチェーホンテを、わたしはまだ囓らずにいる。
 チェーホンテは次の愉しみとし、わたしは「学生」という一篇を読んだ。すでにあらすじは知っていた。保坂和志さんの『未明の闘争』(講談社、2013年)の作中で語られていた話である。全集には「大学生」という題(池田健太郎訳)で、9巻の巻末に収められていた。チェホフ34歳の作。わずか5ページの話は、憶えていたあらすじと大差なく、チェーホフの筆致は坦々としたもので、むしろ保坂さんの語りのほうが迫って感じられた。
 
 まだ冬の匂いを残す春先、寺男の息子で神学生のイワン・ヴェリコポーリスキイは、山鴫撃ちの帰途、夕闇せまる荒地で百姓の母娘が焚火を囲むところに出遭った。凍えきった体を温めようと焚火に近づき、学生は後家の老母ワシリーサに話かけた。ひとしきり話したのち、「ちょうどこんなふうに、使徒ペテロも寒い夜に焚火にあたったのさ」と、 祭司長に捕らえられ、鞭打たれるイエスを目の当りにしながら、主を置き去りにして逃げだしたペテロの事を学生はワシリーサに語った。「ペテロの否認」で知られる聖書中のエピソードは、バッハの受難曲の主題ともなっているほど、キリスト教では浸透している。
 ペテロは、祭司長の館の中庭で下男たちと焚火にあたりながら、一人の女に「この人もイエスと一緒にいたよ。」と指呼される。彼はどぎまぎし「私はあの人を知らない」と答えた。また誰かが「お前もあの一味だ。」しかしペテロはふたたび否定した。「今日、庭であの男と一緒にいたのはお前じゃなかったのかな?」ペテロが三たび否定したとき鶏が鳴きだしたのである。
「われ、汝に告ぐ、ペテロよ、きょう、汝三たびわれを知らずと拒むまで、鶏、鳴くことなからん」
  ペテロは、エスから最後の晩餐の席でそう言われたのを思い出し、ひとり中庭を出て激しく泣いた。「静かな静かな、暗い暗い庭があって、その静けさの中で低いすすり泣きの声がやっと聞こえる……」学生が話し終えると、ワシリーサは「微笑を浮かべていたが、急にしゃくりあげたと思うと」、大粒の涙をはらはらと流した。
 チェーホフは「ペトロの否認」という主題を語っているのではない。そこで生起した出来事をただ語っているだけだ(学生に語らせている)。
 じつはグルニエも「学生」に触れていて、この小説でチェーホフが語ったのは、聖ペテロという聖人ではなく、聖人をして「三度否定させるに至った彼の恐怖、その後の苦悩と恥」だと言っている。そうかもしれない。しかし、そうだとすればワシリーサの涙は、ただ信仰の説明となってしまう。
 ワシリーサが泣き出したことで、学生はこう思った。
「ワシリーサがああして泣き、その娘がああしてどぎまぎしたとすると、彼がたったいま話した千九百年まえの出来事が、今日に──このふたりの女に、いや恐らくはこの荒れはてた村に、彼じしんに、すべての人びとに、何らかの関係があるのではないか。」
 そして学生の胸にふいに喜びが打ち寄せる。
「過去は、一つまた一つと流れだすぶっつづきの事件の鎖によって、現在と結びついているのだ。そして彼は、たった今じぶんがこの鎖の両端を見たような気がした。──一方の端に触れたら、もう一方の端がぴくりとふるえたような気がした。」
 
 後ろで誰かが泣いているのが聞こえる。読経を了え、後ろに向き直って一礼ののち、何か話さねばならないのだが言葉にならない。こうしたとき、いつも滑稽で胸が痛む話をひとつできたらいいと思う。まして目の前に座るのは、ひそかに師とあおぐKさん、加藤典洋さんであった。わたしは加藤さんの書かれたことを、さも自分で考えたように檀家さんの前で話したこともある。それは好評だった。そのことを思い出して赤くなった。「釈迦に説法」とはこのことか、と感じた。
 だが、釈迦に説法するってことも考えようによってはアリ、滑稽にして胸が痛む話にならないだろうか。今はそんな気がする。師が弟子と向きあうとき、なにも言わずとも伝わるものがある。それを仏教の世界では面授と言って、経典から教えを学ぶことより重んじられている(このことも加藤さんから教えられた)。でも、まだここには「師から弟子へ」という高低差が介している。「弟子から師へ」という遡行があってもいいのではないか。そうでなければならない気がした。
 チェーホフの「学生」は、そうしたことを教えてくれているように読めないか。「一方の端に触れたら、もう一方の端がぴくりとふるえたような気がした」のは、神学生のイワン・ヴェリコポーリスキイが、ワシリーサのなかのペテロに触れることで面授したのだろう。と同時、ワシリーサは、神学生のペテロの話に導かれて大粒の涙を流した(その涙はどこから来るのか)。
 まだうまくは言えないが、いや言えなくて当然のことなのだが、わたしは加藤さんと会うといつも、一方の端に触れたら、もう一方の端がぴくりとふるえる鎖の両端に立っている心地がして、何も言えなくなる。