ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダ・カフェ 100回に際して

 2011年5月1日に第1回を開いて、ブッダ・カフェは回を重ねて今日100回を迎える。

 いま数年ぶりに、第2回を告知する時に書いた、「ブッダカフェとは」を読み直した。ここに書いたことを、どれだけ続けてこられたか。

 ほんの一握りの行動をともなっただけで、ブッダ・カフェで出会った人たちは記憶の片隅に今も扉を叩いている。なにの扉を叩くのか。

 「ブッダカフェとは」で、ブッダ・カフェの草創期から来られていた為才さんから、わたしは「〈個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる〉ことの大切さ」を教わったと記している。

 この集いを続ける上で、わたしがもっとも恐れたのは、それがいつの間にかたち消えてしまうのではないか、という不安だった。それが、どういう形で維持できなくなるか、初めて間もないころ、カフェに来られた方から、「何時いつ何処そこでデモがありますから参加してください」というお誘いを何度か受けた。まだカフェがどのように営まれていくか方針の定まっていない時でもあり、そうした積極的な社会参加が必要だと考える時期でもあった。ブッダ・カフェがひとつの運動体だと感じられたのだ。だが、わたしはこうも考えていた。ここでブッダ・カフェが、拠点とする寺を離れてしまっては、それは「人と人と会える場と時間を作れないものか、寺でテーブルを囲んでのひとときを過ごす、小さくて淡いコミュ二ティー」ではなくなると直感した。そして、その判断は正しかったと思う。

 〈個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる〉ためには、その場所をその時間に訪れれば、そこにいつもいて話が聞けるように準備をしておく。それがブッダ・カフェ、ひいては寺という場のあり方ではないかと気がついた。

 もうひとつ、「ブッダカフェとは」の中で、〈「子ども」から考えること。それが、どれほど私たちの拠りどころとなり得るか〉とも書いている。震災後、福島やその周辺地域から、夏休み(冬や春も)の短い期間だけでも、子どもたちを招いて、放射能に対して多感な成長期を少しでも守るように務めるボランティア活動を、いまなお急務だと心得、それを続けてこられている方も知っている。そうした活動を、ブッダカフェの名で支援することもあったし、これからも必要と感じたら、できる形で支援の手をさしのべたい。しかし、ブッダ・カフェでは、積極的な事業はできない。

 わたしは、わたしなりに〈「子ども」から考えること〉を実践したい。

 

そら

 

おとうちゃん
あんな
なんにもない そら
みてみ
あのな
そら みてみ

 

北白川小学校1年女子
『きりん』(1959年9月号)

 

 子どもが指さす方へ寄り添いたいのだ。なにもない空を見上げよう。

 それが、いまのところブッダ・カフェの向かう方向性である。