ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

彼岸って何?

 今日は彼岸の入りでした。

 午前中、爽やかに晴れていましたが、午後法会を終えるころは雲行きがあやしくなり、参詣のお檀家さんを見送ったあと雨が降りだしました。

 彼岸会法要にあたり、読経のあと法話をしました。初めて法話らしい法話を、前もって原稿に用意しました。この通り話したわけではありませんが、法話の下書きをここに掲載します。

 

 昨日、お彼岸って何? という質問を友人からされました。

 そう問われ、これまでわたしは太陽が真西に沈む秋分の日、春分の日を中心に前後三日の一週間をお彼岸と呼んで、その時は西の彼方にある西方浄土、すなわち彼岸と、われわれが生きる此岸、こちらの世界が、真西に沈む日の光に一本の条(すじ)に結ばれて、通じあえる時だと説明しました。

 すると友人は、西方浄土って何? と不意を突くように訊ねました。

 それは、西のはるか彼方、われわれ人間には計り知れない遠さにあるという、阿弥陀如来のいらっしゃる楽園のことだと説明したところで、わたしは何だか歯痒くなりました。ほんとうに、そんな楽園は存在するのだろうか、と。

 

 この時期になりますと、夕方四条通り(京都の市街を東西に横切る目抜通り)にでますと、日の光がまっすぐ通りに沿って、影も落とさずに伸び、西の空に日が落ちる様子を眺めると、果たしてその先に西方浄土があるような気がするのは、わたしが浄土真宗の僧侶であるからでしょうか。

 

 浄土という言葉を辞書で引くと、「仏が住む欲望や苦しみのない世界」と説明されています。

 浄土の反対の言葉というのは、「穢土(えど)」と申します。われわれの住む世界は、渦巻く欲望と苦しみに満ちた、穢(きたな)い国土だという意です。年に二度、その清らかな清浄な世界と、欲にまみれ、穢く汚れた不浄の世界が一条の日の光によって結ばれる。そうした光景に出遇うと、われわれ世俗に汚れた心は、一瞬でも洗われるような思いがするのではないでしょうか。何かへの願いが生じる。

 いつもここで勤める正信偈、念仏和讃のあと、回向というものを読誦します。

 

 願以此功徳

 平等施一切

 同発菩提心

 往生安楽国

 

 「願わくばこの功徳を以て/平等に一切に施し/同じく菩提心を発して/安楽国に往生せん」と、書き下し文で読むとこうなります。あいだをつづめて言えば、「願わくば、この功徳によって、安楽国、きよらかな浄土に往生したい」という望みがこめられています。ふつうに読むと、これはわれわれの願いなんだな、と思われるでしょう。浄土に生まれたい、功徳をつめばそれが叶うという、「人の願い」なんだろうと早合点してしまいそうです。ですが、これはわれわれの願いではないのです。

 「願以此功徳」と「往生安楽国」のあいだに、「平等施一切/同発菩提心」という言葉が入ります。すべての人に、念仏という功徳をさしむけて、その功徳をさしむけられたわれわれ一切衆生が、安楽国、浄土へ往生できるように菩提心を起こす、すなわち仏となる道を求めて私は願いを立てたんだ、ということがうたわれています。この願いを立てた「私」が、われわれのことでないとはお判りいただけると思います。この「私」は、言わずとも阿弥陀佛を指しています。この仏の願いこそ、「弥陀の本願」と呼ばれるものです。

 ですから、南無阿弥陀仏というお念仏も、私たちが自らの意志で発しているのではなく、弥陀如来による「わが名を称えよ」という声、功徳がわれわれ一切衆生に届き、それに応じて南無阿弥陀仏と即答していることなのです。

 太陽が真西に落ちていくのを眺めて、もし心が一瞬でも洗われる思いがするようでしたら、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて応じてください。弥陀の本願がわれわれに届いた一瞬、そこに往生というものが訪れているのです。