ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

コロナに思う

 書き始めたメールが下書トレイに入ったまま一ヶ月以上、今日こそと思って読み直してみると、十日ほど前に書いたことがもうフェーズにあてはまらなくなっており、いままで自分の感じて来た時間と世の中の時間、というより人間が社会生活を送るため築いてきた時間の観念(そこから歴史的時間も観測される)が、生物(生成)の時間や地球(宇宙)の時間の流れに呑まれてしまったような状況が生じているのだろうと思います。

 以下は、この1ヶ月ほどの間に考えたことが地層のようになった文章なので、一貫性がないようですが、それを承知でお読みください。

 

 コロナ感染症の拡大で文明社会がどんどんと侵食されていくようで、人類が進歩し、この先も発展に向かおうとする道はもはや閉ざされつつあるように見えます(安倍晋三はこの後に及んで経済のV字回復など言っていますが空虚)。いや、誰もがうすうすそうなるとは感じてはいたのでしょう。でも、そのことに改めて人が気がつくのであれば、コロナウィルスとの遭遇を奇貨にして、いずれこの転換期を乗り越えて人類の叡智に結ばれるのかもしれないし、あるいはそれを正視できず、諍いと分断を続けるのであれば、国は、いや人類は早晩滅亡するだろうシナリオも見えて来ました。事態の推移から目を逸らしてはならないと切実に考える日々ですが、コロナのニュースに触れ続けているというのも滅入ってしまいます。

 

 親鸞が云う「悪を転じて徳となす正智(しょうち)」とは、仏に有って、われわれ人は有(も)ち得ないものではあるけれど、この悪玉ウィルスによって、私たちは大事な選択を迫られているように直観します。そうはいえ、それは本当に我々の手による政治的選択、あるいは人類の歴史に相沿う選択という類で収まることだろうか。コロナの拡大を見ていると、われわれはすでに選択する機会を喪っているようにも思えるのです。自業自得。それでも、その選択が、我々の届かぬところで仏の正智に委ねられているのだとすれば(それはある意味で「選択する機会を喪っている」ことと表裏一体)、どうにも仕方ないのだと気持ちが鎮まっても来ます。目の前の家族や友人、何より子どもの将来を思うと暗澹としてしまうのですが、顔をあげて前方を凝視めることで家族を守る心構えが大切だし、そうしないと瞬く間に命を落とすように感じます。

 

 鶴見俊輔氏が、柳宗悦について書いた文の中で、南無阿弥陀仏が「(他力により)人間がすくわれていることを言いあらわす」としていました。これは、蓮如の「御文」にある、「南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがた」という一節の現代語訳ではないかと気がつきました(鶴見さんの言い回しは柳宗悦から得たのでしょうか)。

 

 御文は応仁の乱に始まる乱世に生まれた信仰の言葉です。今のコロナ禍は、この緊急事態宣言をもって有事の状態に一歩踏み入れたように感じます。その一歩を踏ませたのは政治であり、その結果人命には優劣があることが如実に示されました。近代は人間の自由・平等を前提に進歩してきましたが、その理念の実践では前進と後退を繰り返し、少し前進しても必ず大きく引き戻されてしまう仕組みになっているようです。そう考えると、近代には、それが実現不能とさせる、さらに大きな仕組みがあって、近代とはその仕組みの上で縮小再生産を繰り返しているのではないでしょうか。

 

 コロナウィルスは平等に我々を扱います。この平等は、近代が前提とする平等と、それはどう違うのでしょう。

 

 先月17日、彼岸の入りの日に予定していました住職継職の法要は延期しました。ご報告が遅くなり申し訳ありません。5月下旬頃に改めてと予定していたのですが、現状を考えるとそれも難しいようです。彼岸会法要は、仏前にあまねく人たちと朋にあるのが住持の勤めでもあるため、予定どおり厳修したのですが、そのとき御門徒を前に法話として話したことがあります。

 

 以下、法話の文案を加筆修正したものです。

 

解脱(ケダチ/げだつ)ノ光輪(クワウリン/こうりん) キハモナシ

光触(クワウソク/こうそく)カフ(む)ル モノハ ミナ

有無(ウム)ヲハナルト ノへ(べ)タマフ

平等覚(ヒヤウトウカク/びょうどうかく)ニ 帰命(クヰミヤウ/きみょう)セヨ

親鸞浄土和讃 讃南無阿弥陀偈和讃 五」

 

われわれ生死の懊悩は、無辺の光にひとたび触れれば、たちまちに氷解する。分別をつけて有無を測ろうなどとする心根からは、いっさい離れてしまおうと仰ってるのだ。平等の慈悲ですべてを救う阿弥陀仏をひとえに頼りなさい。(拙訳)

 

 コロナはラテン語で王冠を意味するといいます。英語のクラウン(王冠)はコロナから来ました。空に薄い雲がかかり、太陽の周縁に色づいた青白い光の円盤が見える光学現象を光冠といい、これもコロナと称するそうです。また皆既日食を観測すると、太陽を覆った月の外周に真珠色の淡い光が漏れて見えます。これは太陽の最外層の熾(も)え盛る大気で、コロナと言えば太陽コロナを思い浮かべる方も多いでしょう。コロナウィルスがなぜコロナと呼ばれるかは、電子顕微鏡で観察したウィルスの外観が、太陽コロナを思わせる表面突起の縁をもつことに由来するのです。

 コロナが、この度は肺炎を誘発する悪玉ウィルスとして人間社会を襲ったため、いまやコロナと聞くだけで恐れおののくようになりました。その上、見えないウィルスに色をつけて、誰かがコホンと咳をしただけで白い眼で見るような(見られるような)、過剰なまでの反応が加速しています。どうも人は、すぐ分別をつけたがる性(さが)からは逃れられないようです。この悪玉に対し、どうしてコロナという善玉のような名が与えられたのか。

 さて、最初にあげた親鸞聖人の和讃に、「解脱の光輪きはもなし」と始まるよく知られた一首があります。この「光輪」という言葉、その音といい意味といい「コロナ」と読めないでしょうか。このように煩悩に熾(も)え盛るわれわれを、阿弥陀仏おひとり憐れんで、わが名を称えるものは、ただちに浄土へ、すべて平等に迎えとろうという誓願(本願)をお立てになっておいでだ。阿弥陀仏から発する光輪(コロナ)に触れるものはみな、おのれの分別をつける心根から苦しみが生じ来ることを思い知るのです。

 ただただ念仏すること。すなわち他力、人間がすくわれていることを言いあらわす「南無阿弥陀仏」に身をゆだねることにより、われわれは救われる。

 

 コロナウィルスは平等に我々を扱います。この平等は、生物(生成)の時間や地球(宇宙)の時間を自然と受け入れていた近代以前、すなわち中世にまで我々を引き戻して、人類普遍の平等を教えてくれるのではないでしょうか。

 

 南無阿弥陀仏が私の中で称えられていると、これほどまで感じたことはない日々です。