ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

妙好人のフィールド 大月健さんのこと

 大月健さんが他界して六年が経たんとする。年回で数えると七回忌。

 家の辻潤の本が置かれるところに行くと、大月さんの癖のある懐かしい筆跡の手紙やメモが本の間に挟まれていて、立ち止まりとりだして眺める。

 誰だってそうなのだが、大月さんのような人には二度と会えないと強く思う。大月さんは唯一の人、唯一者だった。

 

 去年の三月の終わり、藤原辰史さんと話す機会があった。藤原さんが大月さんのことをとても慕っていたのだと、人づてに聞いていたので、開口一番大月さんのことを尋ねた。そうしたら、「ぼく、スピリッツの試合に出たことがあるんですよ」とおっしゃる。おどろいた。大月さんは京大農学部図書室の司書で、藤原さんはおそらく貸出カウンター越しに大月さんと出会ったのだろう。大月さんは草野球チームのピッチャーで、試合が近づくと図書室に来る学生を摑まえて、「◯◯くん、野球やらんか」とスカウトした。藤原さんもきっとそうだ。だが、藤原さんは野球はまったくできないと言う。おそらく九人揃わず、「立ってるだけでええから、大丈夫、大丈夫」と大月さんは藤原さんにお願いしたにちがいない。

 大月さんを好きな人は、大月さんの頼みごとを断わることができない。そういう人だった。反対に大月さんに無理なお願い(たとえば草野球の月例ミーティングに行ってもらったり、酒場に誘ったり)をしても、「あ、ええよぉ」と、われわれはすぐ大月さんに甘えてしまう。

 

 三年程前、『屋上野球』というリトルマガジンにコラムを頼まれた。お題は「野球と仏教」。わたしが僧侶だからだった。しかし、大月さんのことを書くことは決めていた。大月さんのことを書いておきたい、それもマウンド上の大月さんのことを書きたいと思った。

 

 このごろ藤原辰史さんの文章に触れると、その向こうに大月さんを思う。

 

 

妙好人のフィールド

大月健さんのこと

 

 草野球を二十年続けている。それだけ続けてもいれば、チームでは一目を置かれるプレーヤーなのかもしれないが、ライトの8番を二十年、不動のライパチくん。なにしろ草野球チームに入ってから野球を始めた。それまでの野球歴はないに等しい。もともと運動にうとく、キャッチボールさえ覚束ないから、当時二十代半ばにして、上達する伸びしろがほとんどなかった。にもかかわらず、二十年も続けられたのはなぜだろうか。

 二十年をふり返ると、野球のできなかったわたしを草野球に引っぱりこんだ二人のチームメイトが、この七年のうちに他界している。チームメイトと言っても、親父ほど年の差があった。そのひとり、大月健さんについて語りたい。

 大月さんはひょろっとして、日に焼けた顔にヒゲを蓄えて、初めて会ったときは、笑うとヒゲの間からヤニに汚れた乱杭歯がのぞいた。冬でも上着をまとわず長袖シャツだけで、年から年ぢゅう素足に雪駄。いつも天然パーマの髪をなびかせ、京大のキャンバスを歩いていた。農学部図書館の司書を務めるかたわら、若き日から辻潤に私淑し、個人誌『唯一者』をコツコツと編集、刊行した。「唯一者」とは、マックス・スティルナーの『唯一者とその所有』に由来する。「唯一者」という在り方は、大月さんを捉えて離さない思想だった。「唯一者」とは、自分自身を所有する「唯一無二の人間」を意味する。究極のエゴイズムとも言われる。

 大月さんにとって、唯一者と、九人でプレイする野球というは、どんな関係にあったのだろうか。

 大月さんはピッチャーだった。どくとくのフォームから繰りだす投球は、人柄のまま大らかで、ブンブン振り回す打者からは、気持ちがいいまでにストライクが取れた。

 大月さんのすごいところは、仏教で言う三毒、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち/欲・怒り・愚痴)を感じさせない。共にフィールドでプレイしていると、それがよくわかる。わたしが凡フライを落球しても、マウンドから「ええよ、ええよ」と手を振ってくれるのだ。

 浄土の仏者に妙好人と呼ばれる人がいる。それは、市井に生きた、動かぬ信心をもった無名の篤信家、聖人である。妙好人の言動は、周囲の人を揺さぶって信心へと導いた。

 大月さんは妙好人だったのかもしれない。

 大月さんの言行を採って、大月さんを妙好人に祀りあげることは可能だろう。しかし、大月さんのことを描こうとして、描けば描くほど、大月さんの言動は特別なものになり、大月さんを聖人化して、わたしが知っている大月さんの実像から離れてしまう。

 「共にフィールドでプレイしていると、それがよくわかる」と先ほど書いた。妙好人が周囲の人を揺さぶったのは、同じフィールトに立って、その人と面と向かって何かを感じたからである。そのフィールドを描かなければ、妙好人の何たるかは知れないのではないか。歴史の上では、妙好人が「動かぬ信念」をもったと言うが、妙好人が生きたフィールドでは、その信念は、もっと流動的だった。

 こう考えてくると、大月さんが胸にいだいた「唯一者」という唯一無二の「動かぬ信念」は、フィールドを転がるボールとしてイメージされてくる。事実、大月さんは、ピッチャーとしてボールを手放さなければ、野球は始まらなかった。

 わたしは、唯一無二のわたしを取り囲むフィールドに、転々ところがり続ける大月さんが投げた球を、今もって追い続けている。

 

(『屋上野球vol.3』2017年9月)