ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

十二歳のスペイン風邪 大伯母の百年前日記

 PCで編集仕事をしながら、眠気に襲われてツイッターを開くと「#国民投票法改正案に抗議します」というトレンドがあがっていて、見送られた「#検察庁法改正に抗議します」がまだ続いているのだろうとぼんやりTLを追っていたら、どうもそうではないと目が覚めてしまった。

 誰の意志でこういう動きが生じているのだろう。なにか目に見えない怖い病気に感染した人たちが政権を動かしているのではないだろうか。

 

「今晩から少しこわくなる」

 

 と、これはわたしの大伯母が100年前(正確には102年前)日記に記した言葉だ。

 

 三年前に寺の境内にある六角堂(納骨堂)の片づけをしていたら、須弥壇の下の収納奥深くから埃をかぶった六冊の日記帳が出てきた。薄暗い堂内でそれを開けると、まだ女学校に通っていたころの大伯母の日記だった。

 いまその一部を翻刻して、多くの人に読んでもらいたいと、印刷所から刷り上がってくるのを、まだかと待っているところである(今月末刊行される季村敏夫さんの個人誌、『河口から 6』に掲載)。

 

 大伯母の日記は、当時インフルエンザとは知られていなかったスペイン風邪の流行を生々しく記録していた。

 

大正7年/1918年)十一月十二日火曜日 天気晴 温度五十五度[一二・七℃] 起床六時 就眠九時
此頃新聞を見ると黒枠の広告が沢山ついてゐる。
お友達の重田さんのお母さんも八日になくなられたさうで今日山嵜先生と世良さんと私とで生徒総代になつておくやみに行った。
ほんと重田さんはお気の毒である。

 

 大伯母は京都府立高等女学校(現・京都市堀川高校)へ入学したばかりの少女だった。曇りのない目とはこういうことなのだと納得される、見たまま、感じたままを筆に乗せた12歳の記録である。日記は期せずして、世の中の動きをとらえて、スペイン風邪の流行を身近に迫る不安として記し留めている。

 

 「今晩から少しこはくなる」とは、スペイン風邪が世の中に蔓延するなか、父が所用で不在となった夜につぶやかれるのだが、この目に見えない恐怖は、いまわれわれが経験している漠然とした不安と直結している。

 

 ツイッターでは安倍内閣への抗議の声が無数にあがっている。

 いまの政権は、われわれに底知れない恐怖を与える。

 「今晩から少しこわくなる」

  

 

「十二歳のスペイン風邪 大伯母の百年前日記 野田正子日記抄」の編者後記を、国民投票法改正案に抗議して、一足先にここにあげる。  

 

〈編者後記〉

 大伯母の日記には、興味の尽きない事がまだまだ記されている。紙数を大幅に過ぎて、というよりも、わたしが熱狂するあまり無制限にこの日記掲載を許していただいたことで、常軌を逸した分量になってしまった。

 二月一九日の夜、「少しのどと頭が痛かつたから早く寝た」と記して、その翌日から十六日間も寝込んでしまうのは、大伯母はおそらくスペイン風邪にかかったのだと思われる。病気中も一行足らずでも日記がつけられたのは、軽症で済んだためだろうか。しかし、二週間余りも病床にあったのだから、ただの風邪でなかった。「熱の高さは朝六度八分 昼は七度二三分 夜は七度五分」(二月二六日)、「熱は毎日同じ高さで上り下りもしない」(二月二七日)と、律儀に体調を書き記していて、SNSなどなかった時代、病状がタイムラインのように読めることには驚く。

 日をさかのぼって読みこめば、大伯母の感染経路も推測できる。発症の五日前、二月一四日に「母は渋谷の姉さんが流感で寝てゐられるのでお手伝に行かれた。女中もかぜで郷里へ帰つたので兄さんが困つてゐらしやつたさうだ。」と記す。大伯母の母が流感の感染者と濃厚接触をしていたのである。

 確かに、この日記をスパニッシュ・インフルエンザに関わる史料として疫学的に見るのなら、病床の十六日間とその前後、風邪の流行に関わる記述だけを追えば良かった。

 ただそれでは、大伯母の筆が書き遺したことの本質が半減する。

 スペイン風邪の患者数、死亡者数とも最大に達するのは大正七年(一九一八)一一月のことだが、大伯母のまわりにも病気になる人や、「此頃新聞を見ると黒枠の広告が沢山ついてゐる」(一一月一二日)と、明らかに感染症の拡大が日記には記し留められていた。社会全体が目に見えない不安に包まれているなか、「夜父は広島へおこしになつた。/今晩から少しこはくなる」とたった二行で記された日がある(一一月一一日)。これは単に父の不在が不安というより、十二歳の少女が漠然とした死に直面して畏れを抱いている。

 このたった二行が、長命だった大伯母の一生と吊り合っていると感じるのは、編者の深読みに過ぎるだろうか。

 

季村敏夫個人誌『河口から 6』掲載