ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダ・カフェ 第119回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第119回

 

 
 世の中に「後」とつくことが矢鱈とある。
 コロナ後、震災後、戦後しかり。一日の中でも食後があり、放課後や昼寝の後がある。わたしたちは常に何かの後に暮らして生きている。
 では今現在は何かの「後」であると同時、なにかの「前」だとも言える。
 最初にあげた言葉を用いると、コロナ前、震災前、戦前。わたしたちは大きく前と後を区切られると、あたり前のことだが以前にはもうもどれないのだと肩を落とし、今と比べてずっと良かったと回想して懐かしむ。はたしてそうだろうか。
 “今”は過去の“後”だが、未来の“前”でもある。一瞬を取りだしても、いま現在という時間は、過去から未来へ絶え間なく不可逆的に入れ替わっていくイメージがつくだろう。そのとき、「今」という瞬間は、じつは存在しないということが理解できる。
 

 

難遇今得遇難聞已得聞

 

遇いがたくしていま遇うことを得たり。 聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。


                       親鸞教行信証』総序

 

 よく知られた親鸞聖人の言葉だが、ここに「今(いま)」と「已(すでに)」という時制がつづけて用いられている。ここには、「今あった」ことは、同時に「已(すで)にあった」ということが言われているのだと思う。「今ある」ことは、やはり「已(すで)にある」ということでもあろう。「今あろう」ということは。

「教えに出遇い、教えを聞くことができたことを、奇跡的な出来事であったと感激をもって受けとめている」(大谷大学HP「きょうのことば - [2009年11月]」)

 こうした解釈はむろん間違ってはいない。ただ親鸞は「奇跡的な出来事」だとは思っていないように考える。それが「今(いま)」と「已(すでに)」なのである。

 この「今(いま)」と「已(すでに)」という時間の概念に出遇えたことが、親鸞にとって大発見だったのではないだろうか。

 

 今日、3月25日(木)は、ブッダ・カフェの日です。

 いつもの客殿の座敷を開けています。いつもの座談においでください。

 


3月25日(木)

13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円