ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

walk alone like a rhinoceros

 針と糸を扱うのが苦手である。それだけにとどまらず、わたしには苦手なことがいっぱいある。ノコギリで板を真っ直ぐ引くこと、金槌で釘を打つこと、筆で字を書くことも、文章を書くことさえ苦手なのだ(いまだにそうなので弱る)。
 小学校の作文の時間、原稿用紙の400字を埋めることが至難だった。段落で改行するとき、行の最初の升目に文末が来るように腐心した。そうすることで一行分を稼ぐことができる。だけど、そのような回り道をするなら、わずか一行ほどの文章を考えるほうがよほど早いし、前にもすすめる。
 まがりなりにも文章を綴ることを続けているが、いまでも回り道ばかりしながら書いている。三枚の原稿依頼なら、じっしつ字数では六枚くらい書いているのではないか。それを三枚に削って文章が整う。小学生のときの、書くことがないから改行して一行を稼ぐのと比べると、今はむしろ書くことは多すぎるわけだが、どちらにも共通して言えるのは、ほんとうに書きたいことがなにか、まだ自分で判りきっていないことだろう。毎度、その手際の悪さに呆れるが、呆れる反面、書くことによって自分なりの考えの筋道がぼんやりとだがつかめてくる。文章を書くことをはじめ、わたしは何をするにしても回り道の手順を踏みながら、はじめて明るみに出るのだった。そのときはもう「苦手」という気持ちは薄れている。

 筆を執る。バットを握る。ノコギリで板を引く。金槌で釘を打つ。包丁を握ること。わたしには「昔取った杵柄」というものがない。道具を手にして、なにやら自信がない(むかしほどではなくなったが)。だけど、どんなときにも最初の一振りがある。左足は自ずと踏み出される(いつからか、わたしは左足から踏み出すことをジンクスとした)。

汝自身を灯火とせよ be a right to yourself

犀のように一人で歩め walk alone like a rhinoceros

 鶴見俊輔さんの『かくれ仏教』ダイヤモンド社、2010年12月)に引かれたブッダの教えである。道具を手になにかを初めて作り出すとき、誰もがこの言葉の地点に降り立つのではないか。
 鶴見さんはこう説明する。

その当時は蝋燭(ろうそく)だよね。蝋燭の光みたいなものを、自分の中でともす。その光によって生きよ、と。

犀といっても、二本の角を持つアフリカ犀と違ってインド犀の角は一本で、その中はぶよぶよとした肉で、お互いの闘争の武器ではありません。だから、喧嘩の道具としては役に立たないし、あまり闘わない。だが、体はでかいから、ほかからつっかかってこない。孤独のままずっと一人でのこのこ密林を歩いている。2500年前には、いまと違ってインドの森の中にたくさんいて孤独の歩みを続けていたらしい。それを釈迦牟尼は見ることがあって、ああいうふうに生きるのがいいというイメージを持ったんだ。
           第一章「わたしは悪人である」(『かくれ仏教』)

 先日、中村元訳の『ブッダの言葉』岩波文庫を手に取ってみた。そこに連なる言葉はたいへん素朴で、「汝自身を灯火とせよ」というふうな文言は限りなく見出せた。わたしは、その素朴さ、しごく真っ当なお言葉に、親しみを感じつつ、やや鼻白んで本を閉じてしまった。おそらくそれは、わたしがブッダの名を冠した集まりを開いたので、その集いを支えるような、なにかふさわしい寸言を探そうとして、あらかじめ自分のものでもない言葉を用意することの浅ましさを感じたからかもしれない。
 そのような意味で、わたしは鶴見俊輔という導き手によって説かれたブッダの「教理」(と鶴見さんは言う)は、胸にストンと落ちる。鶴見さんもまた、ブッダの教えを、アーナンダー・クーマラスワミー(Ananda Kentish Coomaraswamy)という美術史家(彼はボストン美術館のインド・イスラム部門の責任者を務めた)の著した『ブッダ伝』により知りえたのだった。鶴見さんはクーマラスワミーを通じてブッダの影響を受けた。アメリカ(USA)で、十七歳の時にである。

(クーマラスワミー−引用者)は芸術論にしても、芸術家などという特別なクラスはないというんだ。一人ひとりが s special artist. There is no special class called artist. Everyone is a special artist. これも驚いたね。これはいずれも私の考え方の根本になっている。ある種の小乗仏教だ。
            第一章「わたしは悪人である」(『かくれ仏教』)

 さて、ブッダの名を冠した集まりを、わたしは「特別なクラス」にはしたくない。めいめいがめいめい、「蝋燭の光みたいなものを自分の中で灯し」(be a right to yourself)、その灯火に照らされた足許をみつめて一歩、一歩と犀のように歩みをすすめる(walk alone like a rhinoceros)、そのための場処でありつづけることを願っている。