ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブラウン管の青空

 法事を終えて、檀家のおじいさんの運転で駅まで送っていただいた。そのあいだ、思いもかけず貴重な話を伺えたので、移動の電車々中、忘れないうちに覚えを採った。
 おじいさんは、八十歳。先月、奥様を亡くされて、めっきり背を丸めて弱々しくされていた。運転にも心許なさが伴なった。実際ヒヤリとした。
 しかし、わたしが「Oさんは、どこにお勤めだったのですか?」と尋ねると、おじいさんは心なしか背筋を伸ばして、「わたしはね、松下に居たんですよ。今のパナソニックですね」と、ハンドルの捌きにも滑らかさが生れていた。
 おじいさんは松下電器産業でブラウン管の開発部門に居た技術者だったそうだ。
 テレビ元年と言われた皇太子・美智子妃殿下のご成婚パレードの実況中継が行われた1959年に入社。年齢を80歳から逆算すると、おじいさんは23歳だった。テレビ時代を、正真正銘、ブラウン管の向こうに歩んだ人である。
 テレビの開発事業は、1964年に控えた東京オリンピックに向けて、カラーテレビ放送の実現を目指した。そして、実際におじいさんは日本で初のカラーテレビ放送に立ち会う。それはオリンピックの開会式、競技が絶え間なくテレビ画面に届くという生中継の臨場感、今では当然すぎて、その驚きが測り知れないのだが、おじいさんは仕事を忘れて、同僚や上司たちと共に、テレビを取り囲み中継を見続けたという。
 東京オリンピックの開会式は晴天に恵まれた。それは、江藤淳が『成熟と喪失』の中で、冷静な眼識を逸脱し、その光景に思わず涙ぐんだと感情を現したように、青空のもとの開会式は、そこに居合わせた人たちをして感慨無量とさせるイベントだったのだろう。
 わたしは、おじいさんの「その日が晴天だった」という指摘にハッとした。テレビカメラの絞りを最大限に絞り込んでカメラを回せたので、本当に最高の映像だったというのだ。それはカラーテレビの将来を開明するような青空だったのだろう。当時のテレビカメラの性能が、天候の明暗で雲泥の差が出るというのだった。
 わたしは、もし東京オリンピックが曇り空のもと執り行われたのなら、江藤淳は、いやその場に居合わせた人たちが、日本の戦後復興を願ってやまなかった人たちにとって、それはもっと違った印象を残したのではないかと思った。
 「その日は晴天でした。」
 カラーテレビのブラウン管に映る、1964年10月10日の青空を、おじいさんの言葉に思い浮かべてみた。


付記


おじいさんがブラウン管に見たのはこの映像だろうか。




https://www.youtube.com/watch?v=21ZG9oh7VX8