ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

竹中郁と浮田要三

 昨晩、ひさびさに浮田要三さんに電話をかけてお話をした。前回の文章で綴った浮田さんが嶋本昭三さんとの対談で朗読した『動物磁気』所収の詩はなにだったか、お尋ねしたのだ。
 「いやぁ、ラビトくん。ぼくはそんなん朗読したの覚えてへんよ。そぉ、ぼく朗読した?
 なんやろね。あ、いま目の前に『動物磁気』、あるある、ちょっと待ってや。」
と、20秒ほど沈黙のあと
 「わかったわかったラビトくん。ぼく読んだんはこれやわ。
“この火をもらひたい人はないか”
というの」
 浮田さんはタイトルを言わず、一フレーズを口にした。それを聞き、
「そう、浮田さんが朗読していたのは、それだ」
と、鮮やかに記憶がよみがえった。わたしもまたタイトルよりフレーズで覚えていたのである。
 そのあとしばらく浮田さんに、竹中郁について伺うことが出来たので、忘れないうちに記しておく。

 だが、そのまえに“この火をもらひたい人はないか”という一節をふくむ「もらった火」は次のような詩。

もらった火
                   竹中 郁

火を欲しい人はないか
よい色の火です
杉林のなかの焚火のやう
印度の魔術の火のやう

いま啣えてゐるタバコの火は
先刻(さっき)ゆきずりの人からもらつた
ふしぎな火
砂金石色の貴い火

この火をもらひたい人はないか
順送りにもたせて生かしときたい火
一人でもよい 二人なら
なほ一層よい
このタバコ吸ひ切るまでに
誰れか 来ないか

             『動物磁気』(尾崎書房/1948年)より

 先のブログを「なくなるまえに、誰かに手渡すこと。自分自身の消滅をかけて、父とはそういう気持ちとなるもののようだ。」と締めくくったが、この詩にこそそうした気持ちが流れている。
 わたしの目前では、いずれたよりなく消え落ちてしまう「砂金石色の貴い火」。誰かこの火を受け取ってくれたなら、わたしの火は消えても、誰かのタバコの穂先で点って、順送りにもたせた「火」は生き延び、わたしの「生」がそれで全うされるだろう。
 ちょっと大げさな喩えかもしれないが、駅伝の中継地点でタスキを手渡したとたん力つきて倒れ込む選手、「自分自身の消滅をかけて」とは、そのタスキに託されたその人の「生」のともしびである。

(未了)