ソウルの家族 서울의 가족 2017年4月1日〜5日
2年前の4月、総勢20名(うち9名は子ども)という4泊5日のソウル旅行をした。
旅が終わって、旅の記録を小さな冊子にまとめ旅の仲間に配った。冊子の名は『ソウルの家族』。旅の仲間は、旅が終わろうとしてソウルを離れがたかった。旅の仲間と別れがたかった。ソウルを家族で旅し、ソウルには家族がいる。そんな思いがタイトルにはこめられていた。
その『ソウルの家族』に書いた、わたしの旅日記「短くなる尻尾 遅くなる歩行」を抜粋する。
ひとりぼっちの考察──気立てのいい真夜中。
6年前(2013)の夏、『Ku:nel(クウネル)』にエッセイを頼まれた。「ひとりぼっちの考察」というテーマで書いてほしいとのことだった。
編集長のOさんが、わたしのブログにアップした毎日小学生新聞の記事を読んで、「ひとりぼっちの考察」というページを作りたいと。
いまOさんのメールを確かめると、最初の来信にこんな言葉があった。
震災後、とくに「つながる」ことが大切だといわれる世の中において、それでも私は人が「ひとりぼっち」であることは大切なことなんじゃないかなあと思うのです。
きのう四日市のメリーゴーランドへ、森達也さんの講演を聞きに行った。そのとき、人間は弱いがゆえに群れる現象があるという話があった。群れること自体は悪くはない。人間社会は群れることによって作られてきた。しかし、群れることから生まれる排除。不寛容な社会が進んでいる、という話だった。具体的にはもっと面白い話だったが、極端に要約するとそうなる。
森さん話を聞いていて、むかし書いた「ひとりぼっちの考察」を思い出したのだ。
いまいちど、「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」という、カフカの言葉を握りなおしたい。
原本が見当たらないので、校正のPDFをスクリーンショットした。読みにくいかもしれませんがご海容のほど。
嵐電の走る情景の上映と鈴木卓爾さんとトーク
6月15日(土)、映画『嵐電』監督の鈴木卓爾さんと嵐電と京都をめぐるトークをします。
『嵐電』の中で、喫茶GINGAのロケセットに使われていた、太秦広隆寺駅ホームに面したお店プレマさんにて、「映画『嵐電』ヒット記念イベント」の1日目に呼んでいただきました。
6月15日(土)
開場:17時30分(開演:18時 終了:20時頃)
入場料(当日券のみ):1000円
定員:30名
予約・お問い合わせは下記メールまで
映画チア部京都支部
moviecheer2018kyoto@gmail.com
(Twitter @moviecheerkyoto )
主催:ミグラントバーズ
協力:出町座 映画チア部京都支部
2日目は、『嵐電』の音楽をされたあがた森魚さんのライブです。
6月16日(日)
開場:17時30分(開演:18時 終了:20時頃)
入場料(当日券のみ):3000円
定員:30名
予約・お問い合わせは上記の映画チア部京都支部まで。
さて、告知を済ませたところで、卓爾さんからこのトークに呼ばれた経緯を説明しましょう。
昨年1月下旬、三条通を夫婦で歩いている卓爾さんと遭遇しました。わたしは、長男と自転車で家路を急いでいるときでした。
たしか麸屋町通を北から南に三条通を横切った際、東から西に行くふたりの姿を見とめたにもかかわらず、わたしは止まらず道を下がってしまったので(京都では、南北の道を北行するときは「上る」、南行は「下る」と言う)、引き返すか迷ったものの、先を行く息子を呼びとめて、三条通にふたりを追いかけました。
卓爾さんはもうすぐクランクインする『嵐電』のことで頭が一杯のようで、今日も町に必要なものを買いにきたとのこと。卓爾さんの妻、田中美穂さんから嵐電をモチーフにした映画を撮るという話は聞いていたので、こうして市中で監督と会うことも映画作りの中に入っていくような気持ちがしました。そのとき、卓爾さんから嵐電を写した古い映像を探していると聞いた。わたしは「嵐電沿線にはお檀家さんもあるので聞いてみましょう」と伝え、長男が「はよ帰ろぉ」とうるさいから、ふたりと別れて道を下りました。
嵐電沿線の檀家さんは、四条大宮、山ノ内、蚕ノ社、帷子ノ辻、鹿王院、北野線では龍安寺にあります。何軒かの檀家さん、また友人に聞いたのですが、「どっかにあったような気がするなぁ。写真やったらあるけど。」という返事は返ってくるものの、8ミリなどのフィルムとなると、たとえ写っていたとしても、嵐電をメインに撮らないかぎりフィルムの表書きやケースに記したタイトルから探りようもないのでしょう。
檀家さんの線はあきらめて、わたしは卓爾さんに次のようなメッセージを送りました。
「洛北高校(北大路下鴨本通)の交差点を西に入った南側にあるバール・カフェジーニョのマスターの父が鉄ちゃん(乗り鉄)で、その父上の切符コレクションから戦前の嵐電切符を見せてもらいました。60代のマスターも京都の鉄道史に詳しいです。サントスコーヒー200円のスタンドバールなので一服にオススメです。」(2018年2月3日)
常連なら「バール」と呼びならわしているカフェジーニョは、檀家参りの途中によく立ち寄るいこいの場です。そう、映画『嵐電』に出てくる喫茶GINGAのような、町のコーヒースタンドであります。マスターがブラジル通なので、BGMはサンバ、ボサノヴァがかかり、メニューにフェジョアーダ、モルタデーラなどと並び、酒はもちろんカイピリーニャ。常連さんが、いつも競馬新聞を広げて紫煙をくゆらせている。
20年くらい前は、このバールの隣に鉄道モノの古道具屋がありました。一、二度のぞいたことがあった。せまい店に、踏切の設備や信号、琺瑯びきの駅名プレート、行先板、切符、鉄道模型、etc.とものがひしめいていました。やや気難しそうな、黒縁のメガネをかけた年輩の店主がおられたのを覚えています。
その古道具屋の店主が、卓爾さんのメッセージにも記した、「カフェジーニョのマスターの父」だったのです。
その後、卓爾さんはカフェジーニョのマスターに連絡を取られたようで、父のコレクションに鉄道を撮ったフィルムが遺されていたのが見つかった(連絡から、発見までに少し時間がかかっていたように思う)。
これらの一部が、『嵐電』のなかで、喫茶GINGAでの上映会にかけられた、むかしの嵐電実景映像になったのでした。
15日は、カフェジーニョのマスターも来てくださるかしらん。マスターも、元祖鉄ちゃんの子だけに、たいへん鉄道史、鉄道路線に詳しい方です。
ひさしぶりにバールを訪ねて、誘いだしてみようと思います。
ブッダ・カフェ extra issue
私の地図を歩く
─事実をどう伝えるか─
話と歌と座談と
日時: 6 月1 日 ㊏
14 時 開演
(13:30開場/17:30終演)
場所: 徳正寺本堂
地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園、北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)。
参加費: 1,500円
カフェ デ コラソンの焼き菓子付
お問合せ: 090-8651-5742(村岡)
desabukit@ezweb.ne.jp
出演:
長田浩昭
(おさだひろあき)
原子力行政を問い直す宗教者の会事務局。真宗大谷派法伝寺住職(兵庫県篠山市)。1960年石川県生まれ。
多賀俊介
(たがしゅんすけ)
中高等学校の社会科教員を定年退職後に設立した「廣島・ヒロシマ・広島を歩いて考える会」代表。1950年呉市生まれ。
長坂知春
(ながさかちはる- ちぴぴ)
シンガーソングライター。真宗大谷派明慶寺僧侶(広島県江田島市)。瀬戸内海の能美島(広島県)生まれ。
「負の遺産」という言葉があります。二十世紀、二つの世界大戦を経て、この言葉は広く知られるようになりました。英語では"Negative heritage"。アウシュヴィッツ、原爆ドーム、チェルノブイリ、ベルリンの壁、ムランビ技術学校、福島第一原発、etc. 場所と、そこにあった建築遺構がシンボルとされるのも特徴です。負の遺産の考え方は、西洋発の倫理観・平和思想が大きくはたらいています。起源をたどれば、キリスト教にいう「聖蹟」に、「負の遺産」が含まれることに気がつく方も多いでしょう(イエスが磔刑に処せられたゴルゴダの丘など)。
敗戦を経て、なおも原発事故を経験したわれわれは、負の遺産のもたらした思想が、どこまで根づいたのでしょうか。マイナスのものゆえ、蓋をして隠したり、抹消することで、なかったことのように忘れたりする例は、枚挙にいとまがありません。世界はけっして見たとおりの世界ではないのです。私たちは、意識の底でそのことに疼くときがあります。
事実をどう伝えるか。私の地図を歩く。内面のフィールドワークを通じて、はじめて私たちは事実を伝えうる古層に足をかけることができます。「負の遺産」とは、じつは私たちの意識の底に、否定の対象としてではなく、あらかじめ知ってるものとして存るのではないでしょうか。
主催: 徳正寺ブッダカフェ
共催: NPO法人ヒューマン・ビジョンの会
鎖の両端
加藤典洋さんがいなくなってしまった。加藤さんがいないということが不思議でならない。そして悲しい。
加藤さんが入院されてまだ間もない去年の12月5日、わたしは加藤さんの息子 良くんの墓を訪ねた。房総半島の内陸、小湊鉄道というローカル線の上総牛久という小さな駅で降り、車で20分、木々に囲まれた丘陵地に良くんは眠る。
良くんとわたしが会って言葉を交わしたのは一度きりだったが、印象に残るものだった(それは、良くんが亡くなったことで余計に印象づけられたのだろう)。
2004年、加藤さんが『テクストから遠く離れて』『小説の未来』(共に講談社)二冊の本により、桑原武夫学芸賞を受賞された。7月、京都ホテルで受賞のパーティーがあった。さて、そのパーティーが終わって三三五五と散会しかかったとき、「次はどこ行くんだ?」と、酒飲みの参加者から声があがった。その声に耳を傾けた多くは、とうぜんどこか近くに二次会の席が用意されているのだろうという頭があった。ところが、どこにも二次会の場所は決まっていないことが判ってきた。加藤さんは、ここへ家族はじめ、山形からお父さんも呼んで来られていたのだ。賞の選考委員を、鶴見俊輔さん、多田道太郎さんらがつとめられて、加藤さんには特別な思いのする賞だっただろう。
華やいだ一群がにわかに路頭に迷いでたような塩梅となった。
京の町は、祇園祭をひかえて人があふれかえっていた。いきなり20人くらいの人数を収容できる店など見つかりようもない。さっきの「次はどこ行くんだ?」と声をあげた男、それは晶文社の編集者 中川六平さんだったのだが、六平さんがわたしに近づいて、「おいジン、お前のママの寺はどうなんだ。20人くらい入れんだろう」と耳うちする。わたしは仕方がなく、六平さんが「ママ」と呼ぶ母に、わたしの生家である寺(徳正寺)へ、これから20人ばかりで行くけれど大丈夫? と電話した。そうやって、加藤さんの一家をはじめ、友人たちが、途中コンビニで酒とつまみを調達したりして、徳正寺へなだれ込んだ。
みんな楽しそうに話をしている光景が今も目に浮かぶ。加藤さんのお父さん(背筋ののびたおじいさんだった)もニコニコされていた。六平さんの「ばーろーおめえ」とさけぶ声が響く。そうした幸せな時間をぼんやり眺めていたら、となりに座った青年がいた。彼は、ほほえみながら話しかけてきた。それが良くんだった。なにを話したのかもう覚えていないが、たぶん猫を飼ってるという話をしたように思う。その前年夏から、三匹の捨て猫がわが家の住人となっていたので、良くんと猫のことでひとしきり話したのではないか。そんな気がする。すると、良くんが「笑った顔の猫って見たことありますか?」と問う。馬が笑い顔をすると聞いたことはあったが、猫の笑い顔はマンガならともかく、想像がつかない。「ないなぁ」と答えると、良くんがポケットから携帯を取りだして、ほらと画面を見せてくれた。そこには、目を三日月みたいに細めて笑う猫の顔が写っていた。思わず顔をあわせて大笑いした。
良くんが事故で亡くなったのは2013年1月14日。その翌日の夜だっただろうか、加藤さんから遅く(といっても22時くらいだった)、電話があった。黒川創さんを通じての電話だった。黒川さんから、良くんが事故死したと聞かされて衝撃を受けた。そうして、わたしに読経を頼みたいという用件だった。当初、加藤さんは、身内だけの儀式めいたことは一切ない告別式を思われたらしいが、黒川さんが徳正寺のことを思いだして、寺へ電話をしたようだった。そのころ、わたしたち一家は、寺の両親とまだいっしょに暮らしてなかったので、母からこちらの電話番号を聞いてかけ直してこられた。
受話器越しに見えた景色がある。黒川さんから、加藤さんへ受話器が渡され、言葉少なく、そういうことだからお願いします、とかぼそくおっしゃった。わたしは、神妙に「はい」とだけ返事し、言葉が続かないので、良くんと、あのとき話しあったことがありますと伝えた。笑い猫を見せてもらったのだと。すると、加藤さんは涙声で、そうか、ジン君は良と会ったことがあるんだね、とほんの少しだけ明るい表情をされたように思えた。加藤さんは、受話器をおいて、後ろにいるのこされた家族に向かって、わたしが良くんと会った話をされているのが受話器越しに聞こえてきた。くらいくらい、あかりの灯った部屋が受話器の小さな穴の向こうにうかがえた。加藤さんが電話にもどる様子がなく、話し声が続いていた。聞き耳を立てるのが申し訳なくなり、受話器をもどして電話をきった。その夜は夢ばかり見て眠れなかった。
良くんの四十九日が済んだころ、加藤さんから、月に2回ほど発刊する『加藤ゼミノート』がメールに添付して送られてくるようになった。加藤さん自身が編集をつとめ、加藤さんの教える早稲田大学の加藤ゼミの学生の発表の場であり、加藤さんが雑誌などに発表する文章や講演録などを再録、いやメディア掲載の前にここへ載せられることもあり、届くのが楽しみだった。そのとき『新潮』で連載中の、のち『人類が永遠に続くのではないとしたら』(新潮社、2014年)としてまとめられる文章も、草稿の段階で読むことができた。
加藤さんが、良くんの死を受けて、早稲田大学を早期に退官することを決め、『加藤ゼミノート』が終刊することになった(『加藤ゼミノート』は、加藤さんの個人誌『ハシからハシへ』に受け継がれた)。その終刊号にわたしは原稿を頼まれた。〆切を過ぎてもなかなか書きだせず、いま加藤さんに原稿を送ったメールを調べると、2014年の4月4日の明け方に書き終えたことがわかる。
その加藤さんの返事をここに引いて、『加藤ゼミノート』終刊号に寄せた「鎖の両端」を再録する。
迅君へ
鶏が三度鳴くまで待っていたが、三度鳴いた後に、届きました。
掉尾を飾る、よい文章をありがとう。
未明の……、読んでみます。
僕もチェーホフ、読みたくなった。
では。
加藤(2014年4月4日 9:16)
加藤さん、無断で再録となりますが、お許しください。
(良くんの墓を訪ねたことから書きだしたのだが、房総半島横断の旅についてはいずれまた記すことにする。)
加藤ゼミノート第15 巻第15 号(通号209号)2014年4月15日刊