ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダ・カフェ 第23回

ブッダ・カフェ 第23回

ブッダ・カフェ、毎月25日の開催です。

3月25日(月)
13:00〜16:30

今回は、第2回のブッダ・カフェ(2011年6月)から参加してくださっている為才さんの肝いりで、バガボンド・カフェを開きます。バガボンド・カフェは為才さんが主宰する勉強会ですが、そのサークルがブッダ・カフェの一角で話をしているという感じで耳をすませ、一時ですが参加していただければと思います。


場所:


徳正寺

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39


地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。

参加費:

300円

バガボンド・カフェについては為才さんのブログ、ならびに以下の為才さんによる趣旨をご一読ください。

■一過性のものだったのか?自分にも問いかける3.11に対する反応
3.11から丸二年の月日が経ちました。直後とまだ言えるだろう2011年5月からこの「ブッダ・カフェ」が開かれており、わたしは6月から参加しました。あの日の意味を自分なりに考えたり、自分勝手ながら、被災地、特に福島の原発事故後の複雑極まる事態に寄り添う気持ちになるきっかけをずいぶんいただきました。
 しだいに、周りも自分も、(被災地から離れているのに、かなりもったいぶった言い方ですが)日常に戻るなかで、ブッダ・カフェの場では、この2年、直後の気持ちに帰るということが、不自然でなく、できていた気がします。
 はっきり申しあげて、マスコミの報道も直後はともかく昨年に比べても、取り上げ方が減っており、被災地や原発事故の実状を知らされることはすくなくなっています。「被災地の方は、忘れられていく恐れをいだかれている」、と先日ブッダ・カフェで、最近東北にボランティアに行かれていたという参加者の方からうかがいました。また、「忘れられるのは仕方ない」という意見もありました。
思えば、震災後3ヶ月の2011年6月時点でさえ、ブッダ・カフェ参加者のなかには、職場で震災の話をするような雰囲気はすでになくなった、とか、あまり普段話題にするのはためらわれる、といったことを話題にされていた方がいました。とくに被災地の東北から遠い関西の実状はそんなものだったのでしょう。
 ジャーナリズムでは、震災直後は、たとえば「災害ユートピア」とかいう表現がいろんな媒体でされていたり、ある雑誌では、首都移転の構想案で、東京を都市ごと、「ひょうたん島」のような巨大な移動船にして、福島の沖に停泊させる、 みたいな奇想天外なことが書かれたものもあり、その時点で、かなりの衝撃が日本社会そのものに走り、わたしも含め、ある種の興奮のなかにいた、といえるのかと思い出します。
 そんないわば「熱しやすく冷めやすい」といえる事態に関して、以前読んだ加藤典洋さんの『敗戦後論』のなかで、戦争直後の知識人の反応を論じていたところがありました。
 戦前とまったく反対のそれこそ180度といっていい社会の変化に際し、いわばその「追い風」に便乗した人と、その風には違和感を表明し、あえて戦前とは「ブレない」気持ちを秘かに書き残していた人がいる、そういう話でした。そして後者の代表として、太宰治をあげていました。
 加藤さんは、戦争直後の日本人の民主主義や自由化の思潮を、「水門の堰を開けたダム」にたとえていて、多くの作家はその水の勢いに乗じて戦前に禁じられていた軍部批判みたいなことをさかんに書きはじめているのだが、太宰の当時の小説は「堰の水がまったく動いていない」と書いています。それには時代の勢いに勝る、よほど筋の通った 強靭な精神力が必要なことが、その表現にこめられていました。
 3.11直後の頃、当事者である被災された福島の方以外の人が、反原発を言うことは、追い風に逆らわず、それを受けることだったのでしょうか。今はまだ、わたしにはわからないですが。
 あのとき吉本隆明が「科学の進歩を止めるな」と言ったという噂がありますが、それは太宰を念頭においていたことばだったのかもしれないとは、いま考えています。
 ■3/25のブッダ・カフェを「バガボンド・カフェ」として(も)開催することについて
あれから2年、いまは、忘れられることが、激流と化しているのでしょう。自民党政権の返り咲きを見ると、そのように思えなくありません。いかにその流れに逆らうというよりなるべく、「堰の水」を静止させるにはどうすればいいのか、そんなことを考えています。
 わたしは以前より、自分でもこのブッダ・カフェに似たともいえる小勉強会的なことを、不定期で限りなく気まぐれながら、友人と企画し、近くの喫茶店などでやりはじめています。「バガボンド・カフェ」と いう名前なのですが、今回、扉野さんのご厚意で、次回ブッダ・カフェをバガボンド・カフェとしても、勝手ながら、告知してみようということになりました。
 じつは、2011年のたしか8月に、同じような形でブッダ・カフェのなかでやらせていただいたことがあります。そのときは、「放射能」のことについて自然科学のかなり初歩の初歩みたいなことを、集まった方と勉強しました。(中学や高校でじつは習っていたことです。)
そのときも、今回も特にいまのブッダ・カフェと違ったことをする気はないのですが、テーマを設けたところが異なる部分です。そして、今回はこんなテーマのことを話してみたらどうか、ということをあらかじめ伝えておこうかと思いこれを書いています。
 そのテーマなのですが、「おもに3.11をめぐる日本人」というものです。

江藤淳『成熟と喪失—“母”の崩壊—』(1967年刊行の文芸評論)
わたしが最近読んだ本のことを、すこし。もう35年も前に買って読んだがあまり覚えてなかたのですが、それこそ65年前に出版された江藤淳『成熟と喪失』を読み直しました。そこには、おもに「第三の新人」と呼ばれた文学者・安岡章太郎小島信夫の小説のなかに描かれた日本人の家庭を論じています。明治維新、敗戦、高度成長を経て、歴史的に日本の家庭が崩壊してきた様子、その結果、家族のなかで、社会的には大人である主人公が、精神的に大人として自立し、成熟することが、難しくなっていることが述べられています。
 かなり簡略化して紹介しますと、江藤淳は、もともと日本には古代から農耕文化特有の母子の密着した関係があり、たとえばアメリカの母が、西部で一人で自立できるように、自分の子どもを「拒絶」し、成熟させようとするアメリカ文化と比較し、精神的に異なる点を指摘しています。さらに、その日本人の家族が支えられてきた「母=家」の文化が、明治維新以降の近代化の結果、崩壊してきたことを指摘しています。
その崩壊は、身分制の廃止と学校教育の普及により、促されたものでした。つまり、明治維新以降、学校教育を受けることによって、子は父親を越えるのが当然で義務的な気分が醸成されたのです。その結果、父親の価値は下落し、子どもは、その父を超えるために猛烈な勉強を余儀なくされました。母と子は、タッグを組んで、父親の社会的な地位や収入を超えようと、協力します。問題は、子どもが「自分は父親を裏切っている」という後ろめたい思いを自覚してないにしろ味わうことです。そして、その思いを母と分かち合うようになったことを、江藤淳はそれを「共犯」と言って、安岡章太郎の『海辺の光景』を例としてあげています。
この『海辺の光景』は、安岡章太郎の傑作として名高い小説です。話は、主人公の父が、敗戦後退役軍人として仕事を失い、収入がないため、高知にある父親の実家に引っ越すことになって、長年住んだ東京の家を引き払うことになったときから、母親に狂気の兆候が現れ、やがてその高知の病院で亡くなるまでのことを中心に、主人公が中学生の頃や、戦争直後、兵役から帰還し、病気を患いながら、職を失った父親と母親と親子三人で過ごしていた頃の思い出を回想として交え、描いたものです。
そのなかで、『海辺の光景』の母親が、住みなれた「家」を離れるときから、「狂気」が始まっている点を、江藤淳は、こう分析します——。つまり、先に述べた日本人の「母子の密着」は、曲りなりにも、家の外で仕事をし収入を家庭に入れていた「父」によって支えられていました。
しかし、子どもに愛を注ぎ、勉強をさせて学歴をつけさせることが、やがて子を社会的に父親を超えた存在にさせ、その「父」の精神的な権威をおとしめる結果となるとともに、結局は、自分の元からその子が離れてゆき、やがては、その母子の密着した関係を突き崩すことになるというジレンマに陥らざるを得ません。それは、つねに明治以来日本人の母にはあったのです。その矛盾を抱えた密着した母子関係が、やがて、敗戦を契機に、急激に破綻してしまいます。
その急激な破綻は、母親の精神的な崩壊をもたらさざるを得ませんでした。その象徴として、住みなれた家を引き払い、高知の父の実家に引っ越すことになったことが、母親自身の精神的な崩壊につながったのだと——。日本人にとって、すくなくとも、その頃は「家」=「母」であったのです。
さらに、敗戦後の日本で、戦前の「鬼畜米英」とは一転し、急速に大衆化したアメリカ文化には、先ほど触れたカウボーイの伝統、母が子を拒絶し遠い西部へ旅立たせる文化があります。それがアメリカ人の子どもの成熟の精神構造で、江藤は日本文化にはない(もしくは、かつてはあったかもしれないが、明治以降の近代化により失われてしまった)「他者」の論理、「神」=「父」の世界像に支えられた親子関係だと論じています。
 多くは戦前生まれの高度成長期の日本人の「父」には、この種の成熟の過程を精神に持っている人はまずいませんでした。しかし日本人は1960年代以降、高度成長期の過程で、物質的に、このアメリカのライフスタイルを限りなく追い求めました。
先程述べた、母子で父を越えることに加え、家庭の象徴である建築物としての家そのものを、現代的で人工的なもの、木や縁側や紙でできた日本家屋とは異なる、自然を極力廃したものとすることが、国民的な目標となりました。しかし、そこには、物質的なもののみがあり、アメリカ文化にあるその種の精神的な原理がありません。
 江藤淳は、小島信夫の『抱擁家族』に、そのかたちだけのアメリカ化が、家庭、つまり、妻に母の幻想を持ちつづける農耕文化的なメンタリティが支配的な日本人の「父」を徹底的に精神的に追い詰めている様が描かれているといっています。
その一方、妻は「母」の役割を担うことを、自分の老化を促すものとして極力拒否すること、マイホームを得て、そのような人工的な建築を持つアメリカ文化がもともと育んでいた「西部への出発」を、女性である妻が自ら望むようになったこと、しかし、それが当時の日本社会ではできないことに苛立ち、日本人の妻が欲求不満になり、精神的な混乱に陥っていることを、この小説の分析を通して、江藤淳は巧みに論じています。
 また、家庭や家のアメリカ化・人工化は、母には農耕文化に根強くあった豊かな母性を、『海辺の光景』のように精神的にではなく、肉体的に崩壊させてしまう様が、この『抱擁家族』のなかの妻、時子の病気(癌)と死として描かれているとも。

_ 『成熟と喪失』といまの日本
 この本は、いまの日本社会を考えるうえでも、横においておくべき本かもしれないと、わたしは非常に感銘を受けました。つまり、3.11をはさんで、被災された方々だけでなく、(いやもし かすると局所的にその状態が顕在化しているかもしれない恐れはありますが)日本社会が混迷している、その根っこに、いままで歴史的に積み重なって形作られた、日本人の精神構造、深層心理が深く関わっているのでは、ということがうかがえる本であり論考であると思いました。
 わたしはバガボンド・カフェで、この『成熟と喪失』を語りたいわけではありません。以上はあくまで話のきっかけ的なもので、たとえば、そういう意味で、江藤淳とは違う観点から、日本 歴史や日本人をたゆまず考えている人のなかに、司馬遼太郎岸田秀、3.11直前に『日本辺境論』を出された内田樹があげられます。
 ただ、今回、そうした方の知見等もふくめ、わたしの狭い範囲の思惑を越えた、参加者ご自身の自分なりの日本人をめぐる考えを、この場で交錯させることで、いまの状況がある種 「俯瞰」することができ、いま苦しんだり、なにかしなければともがいたりされている方が、焦らず安心したり、なにかやるべきこと、考えてみたいことが見え てきたりすればいいな、と思っている次第です。
                              (2013.3.18 為才)
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