ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

かりきりんの歌と、『きりん』の詩の朗読 Ur食堂LIVE!〜かりきりん


本日1月24日 (水)
木屋町三条下るのUrBANGUILDで「Ur食堂LIVE!〜かりきりん」に出ます。

食堂タイム 19:00 〜22:00
◇OPEN 19:00/ START 20:00頃
◇no charge ! カンパ制


下村よう子さんと宮田あずみさん二人、かりきりんの歌と、「ごはん」にまつわる『きりん』の子どもの詩をたくさん用意してお待ちしています。

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もの食べる事

扉野良人

 ものを食べることが、生を保つために必要なのは当然のことだが、食欲というのは往往にして下等な本能として見なされてしまう。こと思想・哲学とは相性が悪いようである。しかし、そうだろうか。
 今から百七年前、大逆事件で処刑された医師・大石誠之介が、獄中から郷里の妻に、「どんなにつらい事があろうとも、その日か、おそくも次ぎの日は、物をたべなさい。それがなぐさめを得る第一歩です」と、ツルゲーネフの言葉を引いて、「今はまあ自分のからだをやすめこころを養う事」と、妻を慰める手紙を書いた(黒川創『暗殺者たち』[二〇一三年、新潮社]による)。この手紙が、われわれを搏つのは、大石の優しさの底に、食べて心身を養わねば保ち得ない「生命」、則ち「存在」の意味が横たわっている。

 『きりん』のなかにこんな詩がある。


人げんは 生まれたとき
こころがない それで
おしっこたれする
ごはんを たべるようになると
お米の中の、神さまが
心になる。
だんだん 大きくなって、
たくさん ごはんをたべ、
どっさりこころになる。
(『きりん』一九五七年六月号)

 書いたのは石川県の小学二年生、島田恵ちゃん。読むほどに、こころが満たされ、おいしさにほほが緩む詩である。
 ごはんを「おいしい」と思って食べるとき、われわれのこころは満たされる。この詩は、「ごはん」は「こころ」だ、ということを教えると同時に、「こころ」は「ごはん」だ、ということも言っている。


 『きりん』を編集した浮田要三さんは、編集者から造形作家になった。吉原治良の率いる具体美術協会のメンバーだった。『きりん』には、子どもの詩と共に、子どもの絵が多数カットとして挿されているが、それら絵のほとんどが子どもが無邪気に描き擲ったような抽象表現で、そうした子どもの造形を浮田さんや、浮田さんの具体美術以来の盟友、嶋本昭三さんは好んだ。


 心のこもった旨い食べ物を食べた時のように、食べるにしたがって、その旨味が味わえるようになってきたのです。それも一時的な、思いつきの良さではなくて、軀全体をもちあげられる程の力強い感動を覚えました。
浮田要三「自由な絵と 好きな絵と」
(『LADS通信 ⑤』[二〇〇四年五月])

 これは、『きりん』誌面に載った嶋本さんのカットについて、浮田さんの感想だが、われわれが詩や絵、音楽に感動するとは、実のところ、心のこもった旨い食べ物を食べた時とそう変わらない気がする。


るすばんをして
うんめぼし
ひとつたべました。

やまざきいそじ「るすばん」
鹿児島市清水小一年/一九五四年三月号)

 こんな詩を読むと、留守番をしている孤独感がつばと共に口中いっぱい拡がっていく。