ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

人生の〆切

 三年前(2017年)の夏の終わり、北朝鮮がミサイルの実験を繰り返し、Jアラートなるものが喧しく発令されていたころ、『現代詩手帖』に隔月で連載していた「生存のための書物」に書いた文章を読み直して、そのとき抱いた重苦しい感慨がよみがえってきた。今ここで書いたことが、ますます煮詰まってきていると思う。つまり、生きている。これを書いている。

 

生存のための書物 5

人生の〆切

──大槻文彦言海

 

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 地球上のあらゆるところで、あらゆる人々がいろんなことをやっている今の今、ぼくはこうしてここにいる。つまり、生きている。これを書いている。

長谷川四郎「古本屋」

 

 

 

 

 もしかすると、人の数だけ、「出版されなかった本」があるのかもしれない。そう思うと、なにか空怖ろしくなる。

 「ぼく」の仕事は、蒙古語学者の辞書編纂の手伝いで、カードに走り書きされた、読みにくい字を原稿用紙に清書する筆耕の仕事であった。

 

 ぼくは思い出す、……出版されなかった本がある。それはおびただしい数にのぼるだろう。そのなかに蒙和辞典というのがある。千五百枚からの稿本であった。その原稿もそれを編さんした人も戦災で焼けてしまった。ただ、その一部を清書した手だけが生きのこっている……

長谷川四郎「古本屋」

(『長谷川四郎作品集第二巻』〈晶文社、一九六六年〉)

 

 

 長谷川四郎の「古本屋」は、「戦争前のことはもうよくわからなくなってしまった」と始まる。無名者の手記ともよめるこの短編は、戦後シベリア抑留から帰還した主人公が、ひょんなことから手に入れたバラックで古本屋を営んでいる。客のいない店の帳場に座って、「ぼく」は、戦争中の「ぼくだけが知っているということ」をノートに綴っている。これが、この手記を書かせる、彼の唯一の動機であった。

 さいきん、わたしより十年先を歩く人から「人生の〆切を想定しないとダメだよ」と言われた。そのときの胸がつかえた気持ちを、わたしは次のようにツイートした。「私がナマクラだから心配してくれたのだけど、十年先にどんな景色が待ってるかわからないし、私に「人生の〆切」という考えが浮かんでこない。誰にも死は確実だが、死の前に〆切を持てというのは負担が大きい。判るけど胸苦しい」(@tobiranorabbit/13:39 - 2017.8.22)、「いま目の前のことで精一杯だし、いまやってる仕事が人生の〆切という覚悟である。先のことはわからないのだから、死の時点から〆切を決めるのではなく、生の最中から自分の身体能力を測って〆切を作ればいい。しかし、往々にして〆切は向こうから決められてしまう」(13:51 - 2017.8.22)

 ツイッターというのは、「ぼくだけが知っているということ」を、その場で書いて││「その場」が大事││、誰かに読んでもらって、思い(疑い)を共有したいだけだ。「出版」を前提にしたツイートなどあるのだろうか。あるのかもしれないが、こうやって自ツイートを引用することのおぞましさ。いやまて、「出版されなかった本」なるものは、いまやタイムライン上の無数のつぶやきの集積として世の中を流れているのかもしれない。

 道なかばで倒れた蒙古語の先生は、人生の〆切に間に合わなかったというべきか、わたしにはわからない。小説の中で、『蒙和辞典』の編纂は先生の個人事業のように描かれているが、筆耕による報酬は悪くなかった。おそらく国家事業として援助されていたのだろう。日本が満蒙に侵略の手を伸ばしていた時代、その侵略地の言語を知る必要は、軍部として急務だったはずだ。古本屋に『蒙古語大辞典』という大部の書籍が持ち込まれるが、その書名を検索すると、同名の辞典が昭和八(一九三三)年、陸軍省編纂により刊行(偕行社)されていたと知れる。蒙古語の先生は、国から辞書編纂の要請を受け、お国の戦争に協力した。もしくは、『蒙和辞典』は彼の宿願で、その仕事が、国によって保障されるのであれば願ったり叶ったりだと、国家事業に加担したのかもしれない。だが、いずれにせよ彼は、国による戦争で命を落とした。人生の〆切が、国家によって握られてしまうことほどの悲劇、悲喜劇はない。

 辞書編纂が、軍事と関わる国家事業に数えられていたことは、わたしに、わが国で最初の近代国語辞書である『言海(明治二四〈一八九一〉年)が、文部省からの要請で作られた国家事業だったことを想起させる。にもかかわらず『言海』は、編纂者大槻文彦が、完成までに十七年もの時間をかけた、一大個人事業でもあった。

 近代国語辞書を持つことが、民衆に国家意識、民族意識を芽生えさせることにつながり、『言海』が完成した明治二十年代前半は、 大日本帝国憲法が発布され(明治二二〈一八八九〉年)帝国議会が開かれる(明治二三年)など、当時不平等条約に喘いでいた明治政府が、欧米列強と対等に肩を並べるべく近代国家を目指し、日本という国の形が世人の中にようやく浸透しようとしていた時代であった。そうしたひとつの目的に、政治家も学者も経済人も操觚者も、「同胞一体なる公儀感覚」(大槻文彦『広日本文典』序論)をもって邁進していた。

 近代国語辞書の完成が、国語の基礎を打ち立て、国語を統一し、引いては一国の独立がかかっているという思いが、そのような大事業を、一個人の手で成し遂げさせた。ここには形を作りだしたばかりの国家が、〆切をもうけず、個人にすべてを委ねるという、国家と個人を結ぶ、じつに大らかな身体感覚が息づいている。しかし、同時に個人も国家も、つねに死と隣り合わせという意識が、彼らに否が応でも人生の〆切を想定させただろう。

 文彦の仕事が終盤に入り、「ろ」にさしかかった頃、生まれて一年にならぬ次女の死があり、妻の死があった。

 

ろ-めい(名)|露命| ツユノイノチ。ハカナキ命。

言海縮刷』(一九二一年第四五五版、吉川弘文館

 

 

 この語には大槻文彦の「ぼくだけが知っているということ」が記しとめられている。そこには「手」だけが生きのこっている。「書く手」があった。書いている。生きている。つまり、人生の〆切が一冊の本に生きられている。

 

(『現代詩手帖』2017年10月号)