ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

ブッダ・カフェ 第107回

毎月25日はブッダ・カフェの日です。


ブッダ・カフェ 第107回

 

解脱(ケダチ/げだつ)ノ光輪(クワウリン/こうりん) キハモナシ

光触(クワウソク/こうそく)カフ(む)ル モノハ ミナ

有無(ウム)ヲハナルト ノへ(べ)タマフ

平等覚(ヒヤウトウカク/びょうどうかく)ニ 帰命(クヰミヤウ/きみょう)セヨ

浄土和讃 讃南無阿弥陀偈和讃 五」

 

 われわれ生死の懊悩は、無辺の光にひとたび触れれば、たちまちに氷解する。分別をつけて有無を測ろうなどとする心根からは、いっさい離れてしまおうと仰ってるのだ。平等の慈悲ですべてを救う阿弥陀仏をひとえに頼りなさい。(拙訳)

 

 コロナはラテン語で王冠を意味するといいます。英語のクラウン(王冠)はコロナから来ました。空に薄い雲がかかり、太陽の周縁に色づいた青白い光の円盤が見える光学現象を光冠といい、これもコロナと称するそうです。また皆既日食を観測すると、太陽を覆った月の外周に真珠色の淡い光が漏れて見えます。これは太陽の最外層の熾(も)え盛る大気で、コロナと言えば太陽コロナを思い浮かべる方も多いでしょう。コロナウィルスがなぜコロナと呼ばれるかは、電子顕微鏡で観察したウィルスの外観が、太陽コロナを思わせる表面突起の縁をもつことに由来するのです。

 コロナがこの度は肺炎を誘発する悪玉ウィルスとして人間社会を襲ったため、いまやコロナと聞くだけで恐れおののくようになりました。その上、見えないウィルスに色をつけて、誰かがコホンと咳をしただけで白い眼で見るような(見られるような)、過剰なまでの反応が加速しています。どうも人は、すぐ分別をつけたがる性(さが)からは逃れられないようです。この悪玉に対し、どうしてコロナという善玉のような名が与えられたのか。

 さて、最初にあげた親鸞聖人の和讃に、「解脱の光輪きはもなし」と始まるよく知られた一首があります。この「光輪」という言葉、その音といい意味といい「コロナ」と読めないでしょうか。このように煩悩に熾え盛るわれわれを、阿弥陀仏おひとり憐れんで、わが名を称えるものは、ただちに浄土へ、すべて平等に迎えとろうという誓願(本願)をお立てになっておいでだ。阿弥陀仏から発する光輪(コロナ)に触れるものはみな、おのれの分別をつける心根から苦しみが生じ来ることを思い知るのです。

 ただただ念仏すること。すなわち他力、人間がすくわれていることを言いあらわす「南無阿弥陀仏」に身をゆだねることにより、われわれは救われる。

 

 先日、彼岸会に際して御門徒さんを前に話した法話の下書きです。


明日3月25日(水)、ブッダ・カフェを開催します。


3月25日(水)
13:00〜16:30


場所:

徳正寺(とくしょうじ)

〒600-8051

京都府京都市下京区富小路通り四条下る徳正寺町39

地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。


参加費:

300円