「百年のわたくし」 巻四 Poetry Reading Event in TOKUSHOJI
Poetry Reading Event in TOKUSHOJI
「百年のわたくし」巻4
聞こえるよ、聴いてごらん
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日時:2019年10月5日(土)
15:00~17:00
(開場:14:00/開演:15:00/終演:17:00/閉場:18:00)
会場:徳正寺 - 本堂
〒600-8051京都市下京区富小路通四条下る徳正寺町39(富小路通西側)
定員: 約 70 名
入場料: 2,000 円
申し込み窓口:メリーゴーランド京都
TEL/FAX 075-352-5408
Mail:mgr-kyoto@globe.ocn.ne.jp
〒600-8018
京都府京都市下京区
河原町通四条下ル市之町251-2
寿ビルディング5F
営業時間: 11:00〜19:00
定休日:木曜日
*参加人数とご連絡先(メールアドレス、電話番号)をお伝えください。
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出演者(敬称略):
荒木みどり(あらきみどり)
1952年、長崎市生まれ。73年より京都在住。78年、ヨシダミノルとともに「恋心の本業」を実践(現在に至る)。1979-90年、京都アンデパンダン展に毎年出展。同展に特記されるパフォーマンスに「きりこときこりの生涯」(80-83年)、「爆発的凝縮のカプセル」(86年)、「叙情は暴力」(87年)がある。1981年-現在、GOOD ART展に出展。同展にソロインスタレーション「時空喰散」(12年)、「9×9×9」(12年)など。1982年、ヨシダミノル、吉田省念とともに美術館で生活(美術劇場@兵庫県立美術館)。2000年より、ヨシダミノル、吉田省念、吉田朝麻と現代家族カルテットを結成。2001年から「現代家族」に継承。
+ 吉田省念(よしだしょうねん)
1980年、京都市生まれ。13歳、エレキギターに出会い自ら音楽に興味をもち 現在に至る迄、様々な形態で活動を続ける。2008年、「songs」をリリース。同年、吉田省念と三日月スープ を結成。09年、アルバム「Relax」(吉田省念と三日月スープ)。11 - 13年くるりに在籍。14年から地元京都の拾得にてマンスリーライブ「黄金の館」 を主催。 16年、ソロアルバム「黄金の館」、17年、「桃源郷」をリリース。
季村敏夫(きむらとしお)
1948年、京都市生まれ。詩集に『木端微塵』(2004年、書肆山田)、 『ノミトビヒヨシマルの独言』(2011年、書肆山田)、『膝で歩く』(2014年、書肆山田)、ほか多数。神戸のモダニズム詩人の動向を伝える『山上の蜘蛛―神戸モダニズムと海港都市ノート』(2009年、みずのわ出版)、『窓の微風―モダニズム詩断層』(2010年、みずのわ出版)、 編集『神戸モダニズム』(都市モダニズム詩誌、第27巻、ゆまに書房)がある。『一九三〇年代モダニズム詩集―矢向季子・隼橋登美子・冬澤弦』(2019年、みずのわ出版)を新刊。三人の未知の詩人の消息に光を射し向けた。
ゲスト
佐々木幹郎(ささきみきろう)
1947年奈良に生まれ大阪で育つ。米国ミシガン州立オークラン
ぱくきょんみ
1956年、東京生まれ。詩集『すうぷ』(ART+EAT BOOKS)、『何処何様如何草紙』(書肆山田)、エッセイ集『庭のぬし 思い出す英語のことば』(クインテッセンス出版)、『いつも鳥が飛んでいる』(五柳書院)、絵本『はじまるよ』『ごはんはおいしい』(福音館書店)。共著にアンソロジー『ろうそくの炎がささやく言葉』(勁草書房)、『女たちの在日』(新幹社)。
藤原安紀子(ふじわらあきこ)
1974年京都府生まれ。2002年、現代詩手帖賞受賞。詩集に『音づれる聲』(書肆山田・歴程新鋭賞)、『フォ ト ン』(思潮社)、『ア ナザ ミミクリan other mimicry』(書肆山田・現代詩花椿賞)。詩誌『カナリス』同人。2019年10月末に第4詩集を発刊予定。
山崎佳代子(やまさきかよこ)
ベオグラード在住。詩集に『みをはやみ』(2010年、書肆山田)他、エッセイに『ベオグラード日誌』(2014年、書肆山田)。ダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(1995、東京創元社)などの翻訳によりセルビア文学を紹介。バルカン半島のユーゴスラビア紛争の戦火をくぐりぬけた友人やその子どもたち(多くが難民となった)から聞いた体験を聞き書きにまとめ、『戦争と子ども』(2015年、西田書店)、『パンと野いちご 戦火のセルビア、食物の記憶』(2018年、勁草書房)として、セルビア語で語られた言葉を日本の言葉に橋渡しをした。食物の記憶をたよりに、友が語る戦争をまとめた『パンと野いちご』は、第29回紫式部文学賞を受賞。
扉野良人(とびらのらびと)
1971年、京都生まれ。浄土真宗大谷派の僧侶。2009年、りいぶる・とふんをアマチュア出版として立ち上げる。書物雑誌『sumus』『四月と十月』同人。著書に『ボマルツォのどんぐり』(晶文社)、『Love is 永田助太郎と戦争と音楽』(季村敏夫との共著)ほか。
+かりきりん
京都のバンド〈薄花葉っぱ(はっかはっぱ )〉の下村よう子(ボーカル、鍵盤)と宮田あずみ(ウッドベース、ボーカル、)によって2007年誕生したデュオ。1948年創刊の児童誌『きりん』に投稿された詩を音楽に乗せて歌う。
下村よう子(しもむらようこ)
大阪府島本町生まれ。〈薄花葉っぱ〉のボーカル、〈かりきりん〉や5人の女性の個性を生かしたハーモニーを主調とするオルタナティブバンド〈Colloid(コロイド)〉に参加、2010年に下田逸郎とニューヨークで共演するなど京都を拠点に広やかに活動。下田逸郎プロデュースによるソロアルバム『だんだんワンダフル』(2015年)、薄花葉っぱでは『薄花ドロップ』(オフノート、2004年)、『朝ぼらけ』(2009年)、『唄の実』(オフノート、2014年)などがある。
宮田あずみ(みやたあずみ)
大分市生まれ。〈薄花葉っぱ〉のベーシスト(Cb)を経て、〈かりきりん〉にて活動。2011年、スリーピースガールズバンド〈数えきれない〉を結成、初めてエレキベースで参加。"ファンタジックで、サイケデリックで、オルタナティブ。さらにマスロック"な1stアルバム『数えきれない』をリリース(2015年)。下村よう子とは〈かりきりん〉の他に、にしもとひろこ、イガキアキコ、池田安友子と共に〈Colloid(コロイド)〉で活躍、1st フルアルバム『Ne』リリース(2018年)。また、2019年春より、〈折坂悠太(重奏)〉に参加。なお浮自のはらの名義で朗読にも挑戦する。
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「百年のわたくし」巻四にあたり:
聞こえるよ、聴いてごらん
この6月、「“ちっちゃいこえ” に耳を澄ます~ 紙芝居をレンズに今の日本を見つめる ~」というタイトルで、詩人のアーサー・ビナードが徳正寺の本堂で話をしました。
日本語ペラペラのアメリカ人が紙芝居をたずさえてお寺にやってきたのですから、思わず吹き出しそうになりましたが、アーサーのことです。静止画とナレーションだけで成り立つアナログな装置に目をつけたのは、彼がアメリカ人で、アメリカには紙芝居が存在しないことから、彼はこの日本で生まれた自転車巡業によるメディアの可能性に瞠目していたのです。いずれは紙芝居の巡業に出て、“KAMISHIBAI” が世界の共通語になるよう、その興行にも野心満々でした。
さて、アーサーがこの6月に新刊したのは、丸木俊・丸木位里夫婦による「原爆の図」から絵の細部を切り取
って(なんと大胆な!)、紙芝居に仕立てた「 ちっちゃい こえ」というお話。 アーサーの目論見は、「原爆の図」を使って「広島の話です。みなさん、悲しいですねぇ」というお話を作ろうというのでないことは、もちろん明らか。「
ちっちゃい こえ」は、じつは生きものの細胞を主人公にしているのです。「原爆の図」の中で、具体的に細胞が図示されているわけではありません。アーサーが「原爆の図」を凝視して、渦潮に巻き込まれるように絵の中へ潜りこみ、そこでクローズアップされた部位に耳を澄ませると音が聞こえてきた。それが、細胞の鼓動、細胞の発する歌の本質、われわれの体の中で四六時中働いている人間の現象、いや生物の現象だと感じられたからです。 紙芝居が始まると、混沌とした「原爆の図」がはらんでいる現実がいっしゅん静まり、細胞が語りだすことで、モノとカタリをひとつにした世界へわれわれは連れ出されるのです。
アーサーにとって、紙芝居という装置が、モノとカタリを体現した格好のメディア、アイデアだったのでしょう。
ところで、この「“ちっちゃいこえ” に耳を澄ます」というタイトルを目にしたとき、わたしはとっさに
同じような言葉を町で見かけたなと思ったのでした。
それは、さいきん町のあちこちに貼られる公明党ポスターに大きく記された、「小さな声を、聴く力」という標語でした。
この言葉は、アーサーの「“ちっちゃいこえ” に耳を澄ます」と似てるけれど、どこか違う、いやかなり違うと思い、なにが違うのかと考えました。
でももし、アーサーが「小さな声を、聴く力」と言ってきたら、うんうんとうなづいてまるで気がつかなかったでしょう。それくらい 、わかりやすくて六ヶ敷い。
「きく」という行為にあてられる、よく知られたふたつの漢字があります。
「聞く」と「聴く」。
この「聞く」と「聴く」とで、わたしはいちど失敗をしたことがありました。
6年ほど前、自坊徳正寺が属する教区が主催する仏教講座のチラシデザインを頼まれて作ったことがあり、 講師の先生からいただいたタイトルが、「歎異抄に聞く」 というものでした。
ちょうど唯円が親鸞からきいた教えをまとめた「歎異抄」を、もっと知りたいと思っていた矢先だったので、いきおいこんでデザイン をしました。そのとき、わたしは「歎異抄に聞く」といタイトルの「 聞く」という表記では、どうも軽い、「聴く」とした方が、そこに 学ぼうという態度が現れてずっと良いのではないかと感じたのです 。わたしはタイトルを「歎異抄に聴く」にした方が、仏教講座のタイトルとし てふさわしいと考え、無断で「聞く」を「聴く」と変えたデザイ ン案を手に、おこがましくも先生にこれでどうでしょうと自信満々に差し出し たのです。すると、先生は申し訳なさそうに、 こんな説明をしてくださった。
仏教では、仏の教えをきくとき、たいてい「聞」の字を使うのです。ほらお経は、「如是我聞」とはじまりますね。すなわち、「 わたしは釈迦の教えをこのように聞いた」と説かれるのです。 仏法をきく場所を聞法道場とも言います。
では「聞く」と「聴く」は、どう違うのでしょう。
「聞く」・・・自然と声や音が耳に入ってくること
「聴く」・・・心を集中して、注意深く耳にとめること
わたしは「聴く」のほうが、「拝聴」という熟語があるように、「聞く」よりずっと丁寧で誠実感に溢れていると考えていたのです。
善知識である先師に意見を申しでたことが恥ずかしくなりました。ちなみに「知識」という言葉は、仏教では「親友」、「真の 友人」という意になります。「善知識」は、「仏道に入らしめる縁を結ぶ」先師のことを呼ぶ言葉です。
「聞く」と「聴く」についての知識を得ると、公明党のポスターを見たときのひっかかりの説明がつくようです。
公明党のポスターがおこがましいのは、「聴く力」って、これ補聴器みたいだな、と思ったのです。「小さな声」を増幅し、音声の必 要な部分だけ抽出し、都合よく解釈するってことじゃん、と政治家の 強引さ、悪知識が透けて見えるように感じたからでしょう。 自然と耳に入ってくる声を聞きわけるには
、力を入れると聞きのがしてしまう「こえ」があるのを知ってての ことだと思います。力を抜いて聞こえる声を聴く。 聞こえるよ、聴いてごらん。
百年のものおとが聞こえてきませんか。
(扉野良人)
プログラム:
◎当日のプログラムは追ってお知らせします。
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物販:
出演者の著書、作品、CDなどを販売いたします。
リーフレット『百年のわたくし』vol.4(りいぶる・とふん) をあわせて刊行します。
協力:徳正寺 書肆山田 メリーゴーランド京都
彼岸って何?
今日は彼岸の入りでした。
午前中、爽やかに晴れていましたが、午後法会を終えるころは雲行きがあやしくなり、参詣のお檀家さんを見送ったあと雨が降りだしました。
彼岸会法要にあたり、読経のあと法話をしました。初めて法話らしい法話を、前もって原稿に用意しました。この通り話したわけではありませんが、法話の下書きをここに掲載します。
昨日、お彼岸って何? という質問を友人からされました。
そう問われ、これまでわたしは太陽が真西に沈む秋分の日、春分の日を中心に前後三日の一週間をお彼岸と呼んで、その時は西の彼方にある西方浄土、すなわち彼岸と、われわれが生きる此岸、こちらの世界が、真西に沈む日の光に一本の条(すじ)に結ばれて、通じあえる時だと説明しました。
すると友人は、西方浄土って何? と不意を突くように訊ねました。
それは、西のはるか彼方、われわれ人間には計り知れない遠さにあるという、阿弥陀如来のいらっしゃる楽園のことだと説明したところで、わたしは何だか歯痒くなりました。ほんとうに、そんな楽園は存在するのだろうか、と。
この時期になりますと、夕方四条通り(京都の市街を東西に横切る目抜通り)にでますと、日の光がまっすぐ通りに沿って、影も落とさずに伸び、西の空に日が落ちる様子を眺めると、果たしてその先に西方浄土があるような気がするのは、わたしが浄土真宗の僧侶であるからでしょうか。
浄土という言葉を辞書で引くと、「仏が住む欲望や苦しみのない世界」と説明されています。
浄土の反対の言葉というのは、「穢土(えど)」と申します。われわれの住む世界は、渦巻く欲望と苦しみに満ちた、穢(きたな)い国土だという意です。年に二度、その清らかな清浄な世界と、欲にまみれ、穢く汚れた不浄の世界が一条の日の光によって結ばれる。そうした光景に出遇うと、われわれ世俗に汚れた心は、一瞬でも洗われるような思いがするのではないでしょうか。何かへの願いが生じる。
いつもここで勤める正信偈、念仏和讃のあと、回向というものを読誦します。
願以此功徳
平等施一切
同発菩提心
往生安楽国
「願わくばこの功徳を以て/平等に一切に施し/同じく菩提心を発して/安楽国に往生せん」と、書き下し文で読むとこうなります。あいだをつづめて言えば、「願わくば、この功徳によって、安楽国、きよらかな浄土に往生したい」という望みがこめられています。ふつうに読むと、これはわれわれの願いなんだな、と思われるでしょう。浄土に生まれたい、功徳をつめばそれが叶うという、「人の願い」なんだろうと早合点してしまいそうです。ですが、これはわれわれの願いではないのです。
「願以此功徳」と「往生安楽国」のあいだに、「平等施一切/同発菩提心」という言葉が入ります。すべての人に、念仏という功徳をさしむけて、その功徳をさしむけられたわれわれ一切衆生が、安楽国、浄土へ往生できるように菩提心を起こす、すなわち仏となる道を求めて私は願いを立てたんだ、ということがうたわれています。この願いを立てた「私」が、われわれのことでないとはお判りいただけると思います。この「私」は、言わずとも阿弥陀佛を指しています。この仏の願いこそ、「弥陀の本願」と呼ばれるものです。
ですから、南無阿弥陀仏というお念仏も、私たちが自らの意志で発しているのではなく、弥陀如来による「わが名を称えよ」という声、功徳がわれわれ一切衆生に届き、それに応じて南無阿弥陀仏と即答していることなのです。
太陽が真西に落ちていくのを眺めて、もし心が一瞬でも洗われる思いがするようでしたら、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて応じてください。弥陀の本願がわれわれに届いた一瞬、そこに往生というものが訪れているのです。
ブッダ・カフェ 100回に際して
2011年5月1日に第1回を開いて、ブッダ・カフェは回を重ねて今日100回を迎える。
いま数年ぶりに、第2回を告知する時に書いた、「ブッダカフェとは」を読み直した。ここに書いたことを、どれだけ続けてこられたか。
ほんの一握りの行動をともなっただけで、ブッダ・カフェで出会った人たちは記憶の片隅に今も扉を叩いている。なにの扉を叩くのか。
「ブッダカフェとは」で、ブッダ・カフェの草創期から来られていた為才さんから、わたしは「〈個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる〉ことの大切さ」を教わったと記している。
この集いを続ける上で、わたしがもっとも恐れたのは、それがいつの間にかたち消えてしまうのではないか、という不安だった。それが、どういう形で維持できなくなるか、初めて間もないころ、カフェに来られた方から、「何時いつ何処そこでデモがありますから参加してください」というお誘いを何度か受けた。まだカフェがどのように営まれていくか方針の定まっていない時でもあり、そうした積極的な社会参加が必要だと考える時期でもあった。ブッダ・カフェがひとつの運動体だと感じられたのだ。だが、わたしはこうも考えていた。ここでブッダ・カフェが、拠点とする寺を離れてしまっては、それは「人と人と会える場と時間を作れないものか、寺でテーブルを囲んでのひとときを過ごす、小さくて淡いコミュ二ティー」ではなくなると直感した。そして、その判断は正しかったと思う。
〈個人的な顔の見える、交渉をひとつづつ重ねる〉ためには、その場所をその時間に訪れれば、そこにいつもいて話が聞けるように準備をしておく。それがブッダ・カフェ、ひいては寺という場のあり方ではないかと気がついた。
もうひとつ、「ブッダカフェとは」の中で、〈「子ども」から考えること。それが、どれほど私たちの拠りどころとなり得るか〉とも書いている。震災後、福島やその周辺地域から、夏休み(冬や春も)の短い期間だけでも、子どもたちを招いて、放射能に対して多感な成長期を少しでも守るように務めるボランティア活動を、いまなお急務だと心得、それを続けてこられている方も知っている。そうした活動を、ブッダカフェの名で支援することもあったし、これからも必要と感じたら、できる形で支援の手をさしのべたい。しかし、ブッダ・カフェでは、積極的な事業はできない。
わたしは、わたしなりに〈「子ども」から考えること〉を実践したい。
そら
おとうちゃん
あんな
なんにもない そら
みてみ
あのな
そら みてみ
北白川小学校1年女子
『きりん』(1959年9月号)
子どもが指さす方へ寄り添いたいのだ。なにもない空を見上げよう。
それが、いまのところブッダ・カフェの向かう方向性である。
ブッダ・カフェ 第100回 ブライス多佳子さんの気功教室
毎月25日はブッダ・カフェの日です。
ブッダ・カフェ 第100回
本日8月25日(日)、ブッダ・カフェを開催します。
ブッダカフェはいつもどおりの開催です。
また25日が日曜日と重なる月は、ブライス多佳子さんの気功教室を、本堂を使って催します。
13:00〜14:30を通常のブッダ・カフェの談話の時間とし、
14:50からブライスさんの気功の手ほどきに入ります(16:20までの90分)。
8月25日(日)
13:00〜16:30
ブライス 多佳子の
気 功 教 室
気が流れて、自然に動き出すまで。
日時:8月25日(日) 14:50 〜 16:20
場所:徳正寺 *道順はスクロールした下方にあります。
参加費:1,000円
*ブッダ・カフェの参加費も含まれます。なお気功教室に初めての方は無料ですが、
ブッダ・カフェの参加費300円はかかります。
以前、ブッダ・カフェから発行していた会報「ホオクス・ポオクス」(2012年 12月25 日 発行)からブライスさんにご寄稿いただいた「がんばらないで」を再掲させていただきます。
ここに、気功体(気功を体験するときの意識状態)というものをいくつか書きだしておられます。
それが、つねひごろ出来そうで、なかなか出来ないこと。
○ 余分な力を、手放す。99%のリラックスと、1%の緊張。
○ からだの中心線は、いつもまっすぐ垂直に立っている。天からぶら下げられているように。
○ 動くときは、行きたい方向へ向かってゆるむ。
○ その状態を、じっくり味わう。
○ がまんして待つ。気が流れて、自然に動き出すまで。
ここに共感を覚える方があれば、ブライスさんの導きで気功を体験してください。
ブライス多佳子 プロフィール
同志社大学文学部 卒業。
大学医学部、薬科大学等の研究室
秘書を18年勤める。
1994年より八卦循導功を学び、
2013年講師資格を受ける。
外国人の夫と二男一女あり。
京都市在住。
場所:
徳正寺(とくしょうじ)
〒600-8051
○地下鉄烏丸線四条駅から徒歩7分。京阪祇園四条から徒歩9分。四条富小路交差点(西南角に福寿園が目印。北西角にジュンク堂書店)を南へ50m、西側(右手)に寺の本門があります。
参加費:300円