ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

水兵リーベ僕の船

 旅の前、『珈琲とエクレアと詩人 スケッチ・北村太郎』(港の人)を読んだ。著者の橋口幸子さんは長年、校正の仕事をしていた人。荒地の詩人、北村太郎との思い出が、飾らない筆致でスケッチされる。ゆっくりと読んだ。
 北村太郎さんが亡くなってから、もう20年近くなる。橋口さんの筆は、北村太郎のふとした表情、仕草、言葉を、部屋に射し込んだ日だまりのようにとらえている。と同時、日だまりの周囲に溶け込んだ部屋の暗さを気づかせるところがある。橋口さんに、その部屋の暗がりはなにがあったか、もう思い出せないものとして描かれている。闇にも近いその暗がりに、北村太郎さんは居る。そんな気配がした。

 旅から帰って、部屋の隅に新聞が読まずに積まれている。北村太郎さんは午前中いっぱいかけて、新聞を「全面隅から隅まで」読んだという。

 だから、何でも知っていて、どの分野のことでも聞いてわからないと、言われたことがなかった。
 それがとても不思議だった。
 わたしと話すときは、ちゃんとわたしのレベルまで降りてきて話してくださるので、気が楽であった。
 こっちには、けっして負担になるようなことはいわない。本物のインテリであった。
                橋口幸子『珈琲とエクレアと詩人』

 明るい午前の光で新聞を読む北村さんは明晰な思索の人で、日が陰った午后には「『実(じつ)』をつかめるのはいつなのか」(『パスカルの大きな眼』あとがき)と呟いている、そのような光と影を持つ人だったことを橋口さんのスケッチは教える。北村太郎のポエジーも光から影への諧調に彩られている。

 わたしにはスクラップ癖があり、すこしでも心にひっかかると切りとって置いてある。最終的には分類して、手製の台帖に貼り込んでいくのだが、この数年、なかなか整理が追いつかず、切り抜きはたまる一方で弱っている(祖母の使ったサムソナイトの旅行トランクに詰めこんである)。毎日、新聞を隅から隅まで読むとなると、切り抜きたい衝動にかられ、それを押さえることに苦労する。地震があってから、切り抜くことをやや控えてしまい、そうなると読もうという気分が削がれるのか部屋の隅に新聞が山積し、やがて猫が爪磨ぎになってしまった。

 なにを述べようと、わたしは『珈琲とエクレアと詩人』に触れ、北村太郎さんに触れ、新聞に触れ、わたしのスクラップ癖に触れたのか。

 ある考えが自分のなかに定着するまでには時間がかかる。地震以来、「信用するに足る情報を」と言われるが、それは時間を経なければ判らないことだ。テレビ、ラジオは即時性のもので、インターネットで得られる情報は常時更新され、古いものが顧みられることはまれである。新聞はネット情報などに遅れをとりがちだが、わたし自身は新聞によって伝えられる情報のスピードが身にあう。とくに読んだ後に切り抜いて、紙片として置いておくことで、頭にのこるという点で、他のメディアとは比べものにならないと思っている。

 スクラップ帖から新しい記事と、それに因んだちょっと古い記事を紹介したい。

 池澤夏樹さんが「終わりと始まり 原始的な恐怖の心理」というエッセイを8月3日付『朝日新聞』に寄せている。その文中に、かつて高校で習った元素周期表の知識から放射能について触れられていた。

 元素としてのセシウムアルカリ金属だ。ナトリウムやカリウムの仲間で、人体にはなじみやすい。放射能を持つセシウム137は体内に入るとカリウムと置換して筋肉に蓄積される。排出されるまで数か月の間ずっとそこで放射能を出し続ける。半減期は30年。そういうものが身辺にあふれている。
          池澤夏樹「終わりと始まり 原始的な恐怖の心理」

 いま私たちが直面している放射能の恐怖を、高校で習った、あの「水兵リーベ僕の船…」と、水素H、ヘリウムHe、リチウムLiと丸暗記した元素周期表をもとに説明を試みている。そのことを知ったからとて、放射能から逃れられるわけではないが……。
 
 先月17日に開いたブッダ・カフェは針と糸を手に旗を作る試みを提案していたが、集まった人数が少なかったこともあり、まずは座談をして話に疲れたら縫いものをしようという段取りだったのに、話にのめってしまって、とうとう旗作りは裁縫の得意な人の宿題に、用意した布の端切れを持ち帰ってもらった。見本として、一本だけSさんに作ってもらった旗を手に高くかざしたら、空け放った本堂を通りぬける風に気持ちよく靡いていた。旗は、とくに私たちが作ろうとしているこの吹き流し式の旗は、風にそよいで風の姿を教えてくれる。旗が表象するのは、まず風なのだ。

 われわれはなにの話にのめって、気がつくと時間が過ぎてしまったのか。その日に先立って「放射能を知ろう〜原発事故に冷静に向き合うための基礎的な科学知識」という勉強会があった。

 自分でもし判断を迫られた場合、その判断の基礎となる知識はなんなのか、それはどういう原理からそういえるのであるか、それが少しながらでもわかれば、それら情報を読み取り自分で判断をするときの助けになるのではないかと考えたからです。
                        為才の日記

 その勉強会、バガボンド・カフェを主宰した為才さんの頭には、「いずれにせよ、わたし(たち)の今後のテーマとして、科学理論というものが、いわゆる『哲学』の問題、つまり世に言う『真理』の問題とどう関わるのか」が前提にあり、「放射能にまつわる物理学と化学の基本原理について、学びなおすということに限定」する勉強会は、その礎としての布石となっている。
 しかし、ブッダ・カフェで勉強会の報告(為才さんは欠席だったので、講師を務めたNさんによる)を受けて、わたしが感じたのは、もし「自分でもし判断を迫られた場合」、基礎知識を応用して「それら情報を読み取り自分で判断をするときの助け」と出来る人は、予め「知識」の備えを持っていることを必要とする。ここに顔をのぞかせているのは、「判断」とは、より多くの知識を蓄えていて、それを応用する技術を経験上持つ人だけ有利に働くものとなってしまうことだ。このとき「知識」は「基礎」ではなく「予備」として働いていて、われわれが安易に求めてしまうのは、当座に必要な後者の知識ばかりなのかもしれない。いまスーパーで食材を選ぶのに「水兵リーベ僕の船…」と呟いている人はいないはずである。
 話にのめってしまった訳は、いま必要とされる「知識」に対してのスタンスがそれぞれの人によって違うことだろう。

 ひとりの友人がこんなことを発言した。

人間は石炭、石油をエネルギーとして大量に消費してきたけど、石炭、石油が地中深くで出来上がるまでに、何万年、何千万年とかかっているのなら、人間がそれを消費するには同じだけの時間をかけなければフェアじゃない。

 これは生物としての人間に与えられた問いとして、現実に対置して頷けることだった。おそらく「知識」とは「問い」の形をしている。「なぜ空は青いの?」という子供の質問に対して、フェアに答えられる大人はどれだけいるだろう。合理的な正答は調べれば判るが、これが正解と言うよりフェアな答え方をすることのほうが大事である。「どうして外で遊べないの?」という問いはつらいが、それに対して私たち大人はフェアに答えなければならない。

 池澤さんのエッセイは、けっして癒えない「放射能の恐怖」をクレーの絵に接ぎ木する。「何か安定した価値、昔からなじんだものに触れたい」思いで、国立近代美術館へ「パウル・クレー おわらないアトリエ」を見に行ったという。そして気づく。

 見ていくうちに、この画家が自分が見たものを深層心理の闇をくぐらせた上で絵にしていることに気づいた。一見したところ子供っぽいのは、人間はみな心の奥の方に子供の部分を残しているからだ。
          池澤夏樹「終わりと始まり 原始的な恐怖の心理」

 そう、スクラップ帖から、もうひとつ切り抜いた記事の紹介を忘れていた。記事に添えられた写真に意表を突かれた。


                             山田一仁氏撮影

 2003年10月25日付『朝日新聞』の土曜版‘be on Saturday’の「ことばの旅人」という連載からである。「水兵リーベ僕の船」という元素周期表の暗記法を取材(社会部・山中季広氏)している。元素周期表はロシアの化学者メンデレーエフ(1834-1907)が発見した。その功績を讚えてロシア、サンクトペテルブルクメンデレーエフゆかりの建物に巨大な周期表が刻まれている。
 1869年、ペテルブルク大学の教授だったメンデレーエフは「酸素や窒素など主な元素を原子量に従って並べると、化学的な性質が一定の周期で現れること」に気づき、それを一覧表にまとめ、「翌年にはガリウムなど当時未発見だった元素の性質も予言」したという。記事には、元素周期表という「世紀の大発見」だったにもかかわらず、メンデレーエフが周期律に没頭したのは36歳前後の2年半だけで、その後の彼の研究テーマがめまぐるしく変わっていったことを教える。

 無煙火薬を開発し、北極海砕氷船を設計し、油田開発を急がせ、国勢調査の結果を分析した。ウォッカの含有アルコール分を定める政府委員に選ばれたこともある。
 もともと移り気な性分なのだろう、女性関係もめまぐるしかった。
(中略)
 年に一回しか手入れしない髪とひげ。猫背を丸めて教壇にのぼると、水素や酸素を駆使して化学実験を披露した。手品師みたいに教室を沸かせるのが好きだった。 

 メンデレーエフの長男がロシア海軍の士官で、1891年、ロシア皇太子に随行して来日している。大津事件として知られる、皇太子が沿道警備の巡査に切りつけられる事件が出来して、長男はその現場写真を撮影した。その後、長男は長崎に四度寄港し、そのとき秀島タカという女性と深い仲となって女児が生まれた。「あなた様の息子から手紙がない」とタカからの便りに、義父メンデレーエフは母子に何度か生活費を送ったという。「関東大震災で亡くなったという説があるものの、母子のその後ははっきりしない」そうだ。

 「水兵リーベ僕の船七曲がりシップス クラークか」と高校のとき覚えた暗記法が受験生に広まるのは、数研出版の「チャート式」1966年発行の初版に載って以来だという。「昔の学生の覚え方」として紹介されるが、誰が作ったかについては触れられていない。

 サンクトペテルブルグはいちど訪れてみたい街。巨大な元素周期表が刻まれた建物が、旅心を誘ったのであれば、「水兵リーベ僕の船七曲がりシップス クラークか」という、丸暗記という苦行を離れ、ちょっと洒落てロマンティックな言い回しがあったのは確かである。