ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

浮田要三の仕事

 『浮田要三の仕事』の制作依頼を受けてから1年半余りの時間が経つ。
 そして、その刊行日7月21日は、浮田さんの三回忌である。


 おととしのその日、わたしは、藤井豊君と彼の写真集『僕、馬』が完成し、今後の打ち合わせをしながら中華のランチを済ませ、店を出たところで、小橋慶三さんからの電話を受けとった。浮田さんが亡くなったと、小橋さんからの着信というだけで察した。その夕方、浮田さんの家に向かった。喜多ギャラリーの洋子さんと溝渕さんが、浮田さんの眠る横に座って、なにかに堪えている様子だった。浮田さんはいつもの姿で目を瞑っていた。立派な眉毛を見るのがこれで最後かと悲しかった。わたしは刷り上がったばかりの『僕、馬』を浮田さんに献じた。
 10月、百カ日がめぐってきて「浮田要三を語る会」を徳正寺本堂で催した。そう、それに先立つ9月初旬、わたしは浮田さんの四十九日を勤めさせていただいた。その法要を終えて、茨木のご自宅を辞したのち、わたしは法衣のまま東京へ向かった。その夕方、中川六平さんの通夜を勤めたのだ。読経中、雷がずっと鳴っていた。読経をしながら、いろいろなことが頭のなかを去来した。
 藤井豊の『僕、馬』を刊行したのが7月末だった(奥付は6月21日となっているが)。8月末に石神井書林内堀弘さんと六平さんを見舞って、六平さんが休憩室の洗面台の蛇口から水がポチョン、ポチョンと垂れるのを、手を伸ばしてキュッとひねって止めたのを覚えている。妙なことを覚えているものだ。


 閑話休題


 2013年の12月、浮田さんの作品を、小橋さんが浮田さんの旧宅で撮影するというので、わたしも立ち会った。撮影後、茨木の町の喫茶店で、浮田要三の作品集を作りましょう、という相談をした。作品集制作の依頼を、わたしに持ちかけてくださったのが嬉しかった。しかし、一年はかかると言ったように思う。
 ほどなく我が家に浮田さんの資料が段ボール4箱分で届いた。その整理をやっと開始したのが、翌2014年の春先だったろうか。
 その後、何度かの撮影に立ちあった。2013年4月は、忘れもしない、須磨海岸に近い竹中郁さんの書斎へ、今もそこに飾ってある「竹中先生」という作品の撮影に訪ねたのである。
 白いキャンバスの上に白の絵の具で塗り固めた帽子が置かれた作品。竹中郁さんの書斎は、けっして贅沢なつくりではないが、ほんとうにモダーンで素敵だった。浮田さんの作品は、その書斎にふさわしかった。
 浮田さんが『きりん』編集に打ちこんでたころ、編集室に届いた子どもの詩の投稿を、浮田さんは竹中邸へ持ち込んで、竹中さんはこの書斎で半日がかりで詩を撰じ、講評を書いた。浮田さんは原稿を受け取って、大阪の2坪の編集室にとんぼ返りでバイクを走らせた。そんな日々のことを書斎にいるあいだ、わたしは思い描いていた。



 7月に最後の撮影があった。雨の日、わたしは小橋さんの撮影助手を勤めた。倉庫の奥から浮田さんのフィンランドで制作した「You and Me」という作品が現れたのに一同、歓声をあげた。


 この時点で、わたしは最初の刊行日の延期を申し出なければならなかった。当初の刊行予定は7月21日、浮田さんの一周忌にあわせていた。わたしも読みが甘かったな。ならば9月15日、浮田さんの誕生日には出来ないかと相談を受けた。浮田さんが健在であれば、90歳の誕生日である。浮田さんの喜ぶ顔が見えて、わたしは作りましょうと答えていた。どこまで読みが甘いのかと、われながら呆れてしまう。
 夏、寺のあちこちにシロアリが発生し、その駆除のため本堂の縁の下や蔵のものを運び出す作業に追われた。
 10月半ば父が軽い肺炎に倒れた。寺の仕事が重なるなか、じりじりと刊行日は無期限に延びていった。1年経っても、いっこう形が見えないことに、わたし以外の編集委員の面々は業を煮やした。
 わたしも見通しが立てられなく、あわせる顔がなかった。


 2015年も冬が終わりを告げるころ、ようやく形が見えだした。作品を年代順に並べる、作品集のおおまかな台割りができたのだ。
 浮田さんの作品は、制作年もタイトルも記されないものが、かなりの点数にのぼる。サインは決まって裏面にあり、なにも記されていないものも多い。それが未完なのかというと、展覧会の写真記録にあたってみると、その作品がすでに展示されていたことが判ってくる。また何度か展示されるごとに作品が加筆された形跡が見て取れる場合もあった。
 展覧会記録と作品を照合し、作品のだいたいの制作年を割り出す作業をこつこつとやって、収録作品のリストが2月末に出来あがった。リストには1955年から2013年までの作品総数、300点超が並んでいた。


 3月末、岡山から藤井君が家にやってきて、20日間、泊まり込んで写真のレタッチを進めてくれた。『僕、馬』のときもレイアウト作業に一ヶ月の滞在があったが、そのとき以上にわたしの部屋は編集作業の戦場と化していた。一日、20点のペースでレタッチをやった。
 息子たちは藤井君がいることを喜んだ。毎晩、藤井君と連れだって銭湯に通えたからだ。藤井君は作業の合間合間に息子の相手もよくしてくれた。藤井君のレタッチ作業がなかったら、作品集はまだできずにいただろう。レタッチは作品集制作の大きな山場であった。


 しかし、山は続いた。浮田さんの作家歴のなかで触れずには通れない、1983年のデュッセルドルフ滞在と、1998-1999年のフィンランド滞在について紹介するページが空白のままだった。
 浮田さんは1983年、嶋本昭三の誘いを受けて、デュッセルドルフで開催の「具体AU6人」展に出品作を現地で制作したことが知られている。またフィンランド滞在は、フォルッサという町にアトリエとアパートを借りて、一年間を過ごした。フォルッサでは2回の展覧会を催している。これらも資料の山をかきわけて記録を探りだし、その海外渡航の体験が浮田さんの創作にどのような作用を与えたかを追跡しなければならなかった。
 段ボールの底から出てきた、フィンランドで撮られたポジフィルムをモニターの光にかざすと、古い染色工場跡を使っての展覧会風景が現れたときは息を呑みこんだ。この展覧会は浮田さんの個展のなかでも指折りのものだったに違いない。



 フィンランドやドイツでの浮田さんの足跡を紹介できたのも、今回の作品集の成果である。


 『浮田要三の仕事』は全7章で構成されていて、全てのテキストに英訳が入る。この英訳を浮田さんの友人サイモン・エヴァリントンさんが監訳してくださった。各章のイントロダクションをわたしが書きあげるたび、それをサイモンさんに送り、順次訳していただいた。細々としたキャプション、凡例、年譜なども、ほとんどサイモンさんの仕事である(年譜はわたしと友人のまずい下訳があった)。イントロダクションのこみ入ったセンテンスを、サイモンさんは端正な英文に置き換えてくださった。サイモンさんの英訳がなかったら、この作品集はその力を半分しか示すことができなかっただろう。


 こうやって全7章の『浮田要三の仕事』は次第に姿を現した。
 三日前の朝、版下を印刷所に入稿するまでに、けっして書きつくせないが、これだけのことがあった。
 浮田さんの88年の生涯、58年の創作の日々が『浮田要三の仕事』にはずっしりと詰まっている。
 最後に作品集の巻頭に置いた、浮田さんの言葉を引いておく。


人間とは、悲しみの塊である。
その哲理を体得して、
行為する作品を制作する。
それが正に「生」そのものと考える手段ではない。
生きている證としての作品の制作こそが、
人間の本業と心得て
生ある限り生きるべきだと思っている。



A human being is a mass of sorrow.
With the realization of this philosophy,
I create works of art that have a stance.
These creations are explicitly from “life” uncalculated by thought.
I think that the creation of these works is a proof of life,
the true toil and understanding of a human life
that should be lived to the fullest.


浮田要三 - Yozo Ukita