ぶろぐ・とふん

扉野良人(とびらのらびと)のブログ

『動物磁気』

 このブログの2回目に「たのしき磔刑」という竹中郁の詩を引いて、なにの解説もないままおいたが、その詩を所収した詩集をある友人が届けてくれた。

 竹中郁の詩集『動物磁気』。敬愛する詩人のはずなのに、わたしにとって初めて手許におくことになった彼の詩集だと気づいておどろく。


『動物磁気』著者-竹中郁 発行-尾崎書房 発行年月日-昭和23年7月1日

 わたしは過去に二度ほど、『動物磁気』を手にとったことがある。一度は美術作家の浮田要三さんが具体美術のころを回想して、嶋本昭三さんと対談したときだったと思う。もう五、六年もむかしのことか。
 浮田さんは昭和23年2月に創刊した児童雑誌『きりん』の草創期からの編集スタッフだった。『きりん』の発行元が『動物磁気』と同じ尾崎書房で、場所は大阪梅田の桜橋近くにあり、浮田さんは生まれも育ちも梅田の街っ子だった。尾崎書房も浮田さんも『きりん』もまた、大阪という街と切り離して語ることは出来ない。いまでも浮田さん(御年87歳になる)は今里の袋工場の屋根裏にアトリエを構え、活発に制作を続けられておられる。
 同書房に入社したばかりの一青年にすぎなかった浮田さんを「教育にも文学にも無関係の復員青年」と、のち『きりん』編集に携わる足立巻一が評した。尾崎書房は文芸書出版だから、浮田さんは哲学の専門書など編集したいと淡い希望(というのは文学は「からっきしダメや」といまでもおっしゃる)を抱いたにもかかわらず、いきなり児童雑誌を創刊するプロジェクトに配属され、当初の目論見は泡と消えてしまったのだ。でもそのことが、浮田さんにとってはほんとうの意味での哲学との出会い、生きた哲学の発見だったに違いない。
 
 『動物磁気』の発行は昭和23年の夏、その冬に『きりん』が創刊されている。尾崎書房の書房主尾崎橘郎が「子供の詩と童話の雑誌」を作ろうと、当時大阪毎日新聞にいた井上靖に相談し、監修者として井上の友人だった竹中郁が招かれた。誌名は竹中によって名づけられた(さいしょ『たんぽぽ』という案だった)。
 浮田さんは、尾崎書房で同僚だった星芳郎とともに、創刊時から『きりん』の編集実務を引き受け、子供たちによる詩と絵と綴方(作文)であふれるこの投稿誌を、14年ものあいだ毎月欠かさず(尾崎書房の解散により日本童詩研究会へ版元が引き継がれてのブランクはあるが)購読者へ送り届けた。主に関西一円の小学校の子供たちが投稿者であり、なおかつ購読者だった。子供たちを担任する教師が詩や綴方の指導に熱心だったことも『きりん』を大きく支えた。子供のいる現場を日常とし、編修作業で何万という詩、綴方に目を通し、絵を見つづけた。それが浮田さんにとって、生きた「哲学」だったことはまぎれもない。

 竹中郁は長年にわたり『きりん』に投稿される児童詩の選者をつとめる。ためしにひとつ、子供の詩と竹中の選評を引いてみる。

       岸和田市山滝校6年


「とこやがこけた」
「うちももうあきらめなしゃない」
といって
兄さんがとびこんできた
お父さんのズボンをにぎったまま
うちの方をみた
山羊小屋がけむった中に
立っていた。

◇風にたおれそうなわが家にそそぐ愛のこころがにじみでている。しかもさいごにやさしい山羊がいる小屋がかすかに見えるということばで、全体を暗示(あんじ)したのはじょうずでもあるしうつくしい。父のズボンをにぎってということばもよい写生で、いかにも、家の安全をいのるこころにみちている。
                 『きりん』昭和25年12月号P5

 『動物磁気』にあふれる情感もまた「家にそそぐ愛」「家の安全をいのるこころ」に根ざしている。「家」はまた「家族」に通じよう。竹中郁が彼自身、家族のなかで父たる自覚が眼差しとなって、この詩集を貫いているように思える。
 「たのしき磔刑」をもういちど。

たのしき磔刑
                             竹中郁

子供の一人と背中あわせで
寝床のなかで寝て思ふのです
── この子は鳩かな
── この子は風琴かな
── この子は鉱脈かな

鳩なら 飛べよ
風琴なら 歌へよ
鉱脈なら 光れよ

せまい寝床も
くるしい夜も
なんでもなく過せるのです
この動悸うつ木の柱にくくられて
手足もしびれる たのしい たのしい磔刑[はりつけ]

 わたしはこの詩を、二ヶ月余りまえ、必要あってとりだした中野嘉一モダニズム詩の時代』(宝文館出版/1986年)のなかに見つけた。たまたま開いたページにそれがあったので、最後の二行でこの詩の意を解したとき、陽に灼けた畳のうえで棒立ちになってしまった。
 磔刑とは残虐な刑罰である。「磔」とは身体を引き裂くことを意味する。罪人を十字形の木に縛りつけて槍で突く刑罰として「磔(はりつけ)」という字をあてるのは日本語でのみの用法らしい。
 ほんらい引き裂かれる意味での磔刑竹中郁にはたのしいものとしてある。なにの咎あって磔(はりつけ)に処せられたにせよ、それが「動悸うつ木の柱」、血の通った子供の小さな背中に括られるのなら「手足もしびれる」ほどたのしい。このまま引き裂かれることなく一緒にいられることの喜びに満ちている。
 「郁が戦災に遭い家を焼かれ、本を焼かれた後の詩である」という中野の解説が、いっそうこの詩のもつ「家にそそぐ愛」「家の安全をいのるこころ」をひき立たせている。

 『動物磁気』の表題作から数フレーズを引いてみる。8ページにわたり17連の短詩が列ねられる。

   

両手をヅボンのポケットへ突込んだ町の兄ちゃん
軍鶏(シャモ)の怒り肩
いまにも蹴合ひさうだ

   

四六時中
にぢみでる水 老けた水
地下鉄への降り口 暗い泉
この水の行方 蹤(つ)けたい

   

宿直のあかり熒(けい)
しづかにプラネタリュウムと仰ぐ

   

縁のガラス戸に点々
子供の指紋
これがこのごろの脂肪だ
わづかな庭土に肩のぞかせた大根の寒さうなこと

   

島でたつた一人の詩人から手紙きたる
詩筆涸ると 水仙咲くと

                   「動物磁気」より

 「おのれを慰め勇気づけ統べるためにこれらは生れた」と「あとがき」にある。なんでもない日常のなかの、なんでもないモチーフの発見。それは、たとえば径一尺の水たまりでもよい。

いつまで経っても在るものより
ほどなく亡くなるものの方がはるかにいいと

                   「ぼくは……」より

 なくなるまえに、誰かに手渡すこと。自分自身の消滅をかけて、父とはそういう気持ちとなるもののようだ。